変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

絶対肯定

佛教はもともと「四苦八苦」といい、淨土門は「厭離穢土」といい「煩悩具足の凡夫」といい、現世に対して否定的であるが、聖道門は肯定的であるという印象を小生は持っていた。しかるに、この頃思うに、元祖上人の御法語は違うのではないか、むしろ絶対肯定の響きがあるのではないかと。

 

ということで元祖大師の御言葉に曰く、

「われはこれ烏帽子もきざる男なり。十悪の法然房、愚癡の法然房の、念佛して往生せんと云ふなり。」

 

「弥陀の本願は専ら罪人のためなれば、罪人は罪人ながら名號を称へて往生す、これ本願の不思議なり。」

 

つねの御詞に云く。「あはれこの度しおほせばやな」と。その時乗願房申さく。「上人だにも斯樣に不定げなる仰せの候はんには、ましてその余の人はいかが候ふべき」と。その時上人うちわらひてのたまはく。「蓮臺にのらんまでは、いかでかこの思ひはたえ候ふべき」云々。

 

「生けらば念佛の功つもり
 死ならば淨土へ参りなむ
 とてもかくてもこの身には
 思ひわづらふことぞなき」

 

「念佛は何にもさはらぬことにて候。」

 

「佛教には忌みといふ事なし、世俗に申したらんやうに。」

 

「現世をすぐべき樣は、念佛の申されん樣にすぐべし。」

 

「この法の弘通は、人はとどめんとすとも、法さらにとどまるべからず。」

 

遊女申さく、「上人の御船のよしうけたまはりて推参し侍るなり。世をわたる道まちまちなり。いかなる罪ありてか、かかる身となり侍らむ。この罪業おもき身、いかにしてか後の世たすかり候べき」と申しければ、上人あはれみてのたまはく、「げにもさやうにて世をわたり給ふらん、罪障まことにかろからざれば、酬報またはかりがたし。もしかからずして、世をわたり給ひぬべきはかりごとあらば、すみやかにそのわざをすて給ふべし。もし余のはかりごともなく、また身命をかへりみざるほどの道心いまだおこりたまはずば、ただそのままにて、もはら念佛すべし。弥陀如來はさやうなる罪人のためにこそ、弘誓をもたてたまへる事にて侍れ。ただ、ふかく本願をたのみて、あへて卑下することなかれ。本願をたのみて念佛せば、往生うたがひあるまじき」よし、ねんごろに教へ給ひければ、遊女随喜の涙をながしけり。
後に上人のたまひけるは、「この遊女、信心堅固なり。さだめて往生をとぐべし」と。帰洛のときここにてたづね給ひければ、「上人の御教訓をうけたまはりてのちは、このあたりちかき山里にすみて、一すぢに念佛し侍りしが、いくほどなくて臨終正念にして往生をとげ侍りき」と、人申しければ、「しつらんしつらん」とぞおほせられける。

 

引用が長かったけれども、この「しつらんしつらん」には、殊に絶対肯定の響きがあると思う。

 

観無量寿経に曰く、

明遍照十方世界念佛衆生摂取不捨

十方のあらゆる世界を遍く照らす光明が絶対肯定である。その光明が念佛者を捨て給わないので、念佛もまた絶対肯定の念佛である。

 

また思うに、これは思想化すべきではない。安心の感触とでもいうべきである。

 

 

 

南無阿弥陀