変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

それぞれの淨土

無量寿経に曰く、

覺了一切法 猶如夢幻響
滿足諸妙願 必成如是刹
知法如電影 究竟菩薩道
具諸功德本 受決當作佛

 

小生なりの訓を施してみると、

 

覚り了へし一切の法は 猶し夢 幻 響きの如けれども
諸の妙願を満足して 必ず是の如き刹を成さむ
法は電影の如しと知れども 菩薩道を究竟して
諸の功德の本を具へ 受決して當に作佛すべし

 

聖道門の菩薩のことを言われているのであろうと思っていたが、もっと広く解釈してもいいのではないかと思うのである。つまり、聖道門諸宗の人々のみならず、外教異宗の人々をも含むのではないかと。佛教を信じずとも、それぞれの信仰に従って、それぞれの淨土に往くのであると、そしてそれは弥陀の本願の力であると。もう何がどうなろうと、救われることに違いはないということである。

 

極楽淨土に往生すれば済むところを、必成如是刹、というのであるから、淨土門に帰依した念佛者のことではないと思われる。そしてそれはまた、聖道門諸宗の人々にもいえることで、諸宗の人には諸宗の淨土が既にある。淨土の無い異教の人々だからこそ、必成如是刹、ということがあるのではないかと思う。

 

出典は忘れたが、佛教を知らずとも菩薩行を行う人はみな菩薩であるという。それと同じく、念佛を申さぬ人もそれぞれの救いを求めるならば、それぞれの淨土に救われていく。それが念佛の力であり本願の力である。ということが、「必成如是刹」という経文に込められている様にこの頃思う。

 

念佛申さぬ人が「速やかに生死を離れる」ことは難しいだろうが、それでも、やがて救われていく。「光明遍照十方世界」とあるからには、弥陀の光明は念佛申さぬ人にも届き照らされている。

 

念佛申す人は極楽に生まれる。申さぬ人もそれぞれの淨土に往く。宗教的救いを求めない人はそれぞれの業に従ってあるいは浮きあるいは沈む。それは如何ともし難いものである。幸に念佛申す身になったのならば、この天地の間に一人閑かに念佛して喜ぶのみである。

 

 

南無阿弥陀