変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧

宗教と科学

宗教と科学とは、本来、対立するものではない。それを、宗教の領域で科学を語ったり、科学の領域で宗教を語ったりするから、おかしくなるのではなかろうか。 科学は結論が決まっていない。理論と実験とを重ねて結論を出す。当然、結論が変わることもありうる…

愚癡に還る

機の深信が縁起の法であるということは、先の記事に書いた。善導大師は、常没常流転の縁起の法に、罪悪や凡夫という要素を加えられたのである。 法然教学の研究 /第二篇/第一章 法然聖人における回心の構造/第七節 三学無分の自覚 - 本願力回向 一者、決定深…

發菩提心

法然を語る⑨法然と明恵 汝は即ち畜生のごとし、また是れ業障深重の人なり。一代の聖説、仏道の妙因、都て菩提心を離れては余毎なし。 華厳宗の明恵上人が、元祖に対して放たれた悪口である。佛教の根幹たる菩提心を否定されたということで、気持ちはわからん…

聖道門と浄土門

聖道門と浄土門の違いを並べてみる。 聖道門:かっこいい、理知、優秀。 浄土門:かっこ悪い、愚迷、低劣。 浄土門の教義が聖道門寄りになっていくのは、しょうがないかな、とは思う。小生も人のことは言えない。 しかし、一枚起請文にある通り、元祖を第一…

如来よりたまはりたる

歎異抄 後序 - WikiArc 源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。 これは元祖のお言葉ではあるが、真宗の聖教にしか伝わっていない。恐らく、決定を得ていない同門の方々には理解できなかったの…

念佛是真

歎異抄 第18条 - WikiArc 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。 すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。 このくだりを読んだとき、…

往生について

歎異抄 第15条 - WikiArc 浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ、とこそ、故聖人の仰せには候ひしか。 証空の浄土教研究 - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科 証空は證得往生から即便往生と当得往生との二種…

「義なき」と「無義」と

歎異抄 第10条 - WikiArc 念佛には無義をもて義とす。 如来二種回向文 - WikiArc 他力には義なきをもつて義とすと、大師聖人は仰せごとありき。 親鸞聖人御消息 (下) - WikiArc また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人の仰せに…

彼らは教えを聞きに来たのではない

さて、最も不審のある第二条である。 歎異抄 第二条 - WikiArc(全文はリンク先を参照) おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。 「身命をかへりみず…

信心とは決定なり

歎異抄 第1条 - WikiArc 一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を…

信心と信仰

信心と信仰とについて。検索をかけてみると、色々と難しいもののようである。 信仰(しんこう)とは - コトバンク 信心と信仰 ここでは、小生が思うところを述べてみる。 信心とは、浄土門に於いては二種深信である。一つには、自己は常没常流転の生死する凡夫…

法蔵菩薩

浄土の法門は、法蔵菩薩の法門である。念佛の安心は、法蔵菩薩所修の安心である。小生も初めのうちは、近代の教育を受けたものとして、浄土とか法蔵菩薩とか、どうにも素直に受け入れられない。 浄土はまだしも、極楽無為涅槃界とあるのでいいとして、法蔵菩…