変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

宗教は安心ではない

元祖様の念佛は宗教ではないのではないかと、この頃、考えていたのだが、選擇集に「依佛本願故」とあるので、いやいや、やっぱり宗教であるなと再確認した。

 

これは人によると思うけれども、念佛申す当人としては、特に宗教的な気分になったりはしない。なので、これは宗教なのだろうかという疑問が起こったのだと思う。

 

往生論註に曰く、

故知歸命卽是禮拜。然禮拜但是恭敬、不必歸命。歸命必是禮拜

小生訳、

帰命は礼拝であるが、礼拝はただこれ恭しく敬うという気持ちの形であって、必ずしも帰命ではない。だが帰命は必ず礼拝である。

 

浄土門の、ひいては佛教の核心は安心決定だと思うので、この安心こそが宗教なのであってその周りの部分は宗教ではないのではないかと、思ったりもするのである。

 

つまり、安心は宗教であるが、宗教は安心ではない。

念佛は宗教の装いを伴ってはいるが、宗教の装いは念佛ではない。宗教は助業であって正定業ではない。念佛はそのものである。安心であり、往生を決定するものであり、涅槃に導くものである。

 

 

南無阿弥陀佛

念佛の功

元祖上人曰く、

信といふは疑ひに対する心にて、疑ひを除くを、信とは申すべきなり。

「信」が「疑」に対するものならば、第十八願の願文にある「信楽」の「楽」は「苦」に対するものであろうと思う。「苦」に対するということは、「楽」とは「苦の滅」ということであると思う。つまり、「信楽」とは疑いに対するものであるとともに苦の滅でもあるのである。

 

ということは、念佛の信心を得るということは、苦の滅に至る、少なくとも、それに向かって進みゆくというものであろうと思う。元祖上人の御法語にこのことに対する言及は無いようだが、

生けらば念佛の功つもり

と言われているのは、このことを示唆しているように思うのである。

 

安心に浅いも深いも無いとは思うが、その深さが知られてくるということだろうか。

無量寿経に曰く、

如來智慧海 深廣無崖底

如來の智慧の海は深く広くして底もなく涯てもなし。

 

 

 

南無阿弥陀

永遠の命

阿弥陀佛のことを無量寿佛ともいう。無量寿とは量りなき寿命であるから、要するに永遠の命である。ということは、阿弥陀佛とは永遠の命の佛ということである。

 

したがって、阿弥陀佛に南無するとは永遠の命に帰命するということであり、これが往生一定ということであろうか。

 

また、淨土論では帰命尽十方無礙光如来とあり、善導大師は南無阿弥陀佛を釈して帰命無量寿覚とされた。元祖様はこれを用いられなかったようであるが、いづれも漢訳である。思うに、漢訳がされたということは、和訳も可能なのではないだろうか。そこで曰く、

 

永遠なる命の佛さまに安んぜられ額づきたてまつる

(とわなる いのちの ほとけさまに やすんぜられ ぬかづきたてまつる)

 

 

 

南無阿弥陀

死んだら終わりではない

死んだら終わり、生きている間にのみ意味が有るとしたら、それは甚だ可怪しなことではないだろうか。

 

それはつまり、某年月日に生まれ、某年月日に死ぬ、その須臾の間にのみ意味があるということであり、その前後の膨大な時間には意味がないということになると思うのである。

 

その超広大な時間には意味があり、ほんのちょっとした短い人生にのみ意味が無いというのなら、あり得るかもとは思うのだが、その逆はあり得なく無いだろうか。

 

前後の無限の永い時間に意味が無いとなれば、その間の有限の短い人生にも意味はやはり無いのではないかと思う。

 

それは甚だ味気なく、無意味な考え方であると思う。そこには安心も無く、決定も無い。ただ憂悲苦悩があるばかりである。

 

 

元祖上人曰く(勅修御伝)、

われ、もと極楽にありし身なれば、定めて帰りゆくべし

 

この卑小なる人生に意味があるならば当然その前後にも意味はあり、むしろその前後に意味があるからこそ、人生にも意味が有るのであると思う。

 

 

 

南無阿弥陀

それぞれの淨土

無量寿経に曰く、

覺了一切法 猶如夢幻響
滿足諸妙願 必成如是刹
知法如電影 究竟菩薩道
具諸功德本 受決當作佛

 

小生なりの訓を施してみると、

 

覚り了へし一切の法は 猶し夢 幻 響きの如けれども
諸の妙願を満足して 必ず是の如き刹を成さむ
法は電影の如しと知れども 菩薩道を究竟して
諸の功德の本を具へ 受決して當に作佛すべし

 

聖道門の菩薩のことを言われているのであろうと思っていたが、もっと広く解釈してもいいのではないかと思うのである。つまり、聖道門諸宗の人々のみならず、外教異宗の人々をも含むのではないかと。佛教を信じずとも、それぞれの信仰に従って、それぞれの淨土に往くのであると、そしてそれは弥陀の本願の力であると。もう何がどうなろうと、救われることに違いはないということである。

 

極楽淨土に往生すれば済むところを、必成如是刹、というのであるから、淨土門に帰依した念佛者のことではないと思われる。そしてそれはまた、聖道門諸宗の人々にもいえることで、諸宗の人には諸宗の淨土が既にある。淨土の無い異教の人々だからこそ、必成如是刹、ということがあるのではないかと思う。

 

出典は忘れたが、佛教を知らずとも菩薩行を行う人はみな菩薩であるという。それと同じく、念佛を申さぬ人もそれぞれの救いを求めるならば、それぞれの淨土に救われていく。それが念佛の力であり本願の力である。ということが、「必成如是刹」という経文に込められている様にこの頃思う。

 

念佛申さぬ人が「速やかに生死を離れる」ことは難しいだろうが、それでも、やがて救われていく。「光明遍照十方世界」とあるからには、弥陀の光明は念佛申さぬ人にも届き照らされている。

 

念佛申す人は極楽に生まれる。申さぬ人もそれぞれの淨土に往く。宗教的救いを求めない人はそれぞれの業に従ってあるいは浮きあるいは沈む。それは如何ともし難いものである。幸に念佛申す身になったのならば、この天地の間に一人閑かに念佛して喜ぶのみである。

 

 

南無阿弥陀

絶対肯定

佛教はもともと「四苦八苦」といい、淨土門は「厭離穢土」といい「煩悩具足の凡夫」といい、現世に対して否定的であるが、聖道門は肯定的であるという印象を小生は持っていた。しかるに、この頃思うに、元祖上人の御法語は違うのではないか、むしろ絶対肯定の響きがあるのではないかと。

 

ということで元祖大師の御言葉に曰く、

「われはこれ烏帽子もきざる男なり。十悪の法然房、愚癡の法然房の、念佛して往生せんと云ふなり。」

 

「弥陀の本願は専ら罪人のためなれば、罪人は罪人ながら名號を称へて往生す、これ本願の不思議なり。」

 

つねの御詞に云く。「あはれこの度しおほせばやな」と。その時乗願房申さく。「上人だにも斯樣に不定げなる仰せの候はんには、ましてその余の人はいかが候ふべき」と。その時上人うちわらひてのたまはく。「蓮臺にのらんまでは、いかでかこの思ひはたえ候ふべき」云々。

 

「生けらば念佛の功つもり
 死ならば淨土へ参りなむ
 とてもかくてもこの身には
 思ひわづらふことぞなき」

 

「念佛は何にもさはらぬことにて候。」

 

「佛教には忌みといふ事なし、世俗に申したらんやうに。」

 

「現世をすぐべき樣は、念佛の申されん樣にすぐべし。」

 

「この法の弘通は、人はとどめんとすとも、法さらにとどまるべからず。」

 

遊女申さく、「上人の御船のよしうけたまはりて推参し侍るなり。世をわたる道まちまちなり。いかなる罪ありてか、かかる身となり侍らむ。この罪業おもき身、いかにしてか後の世たすかり候べき」と申しければ、上人あはれみてのたまはく、「げにもさやうにて世をわたり給ふらん、罪障まことにかろからざれば、酬報またはかりがたし。もしかからずして、世をわたり給ひぬべきはかりごとあらば、すみやかにそのわざをすて給ふべし。もし余のはかりごともなく、また身命をかへりみざるほどの道心いまだおこりたまはずば、ただそのままにて、もはら念佛すべし。弥陀如來はさやうなる罪人のためにこそ、弘誓をもたてたまへる事にて侍れ。ただ、ふかく本願をたのみて、あへて卑下することなかれ。本願をたのみて念佛せば、往生うたがひあるまじき」よし、ねんごろに教へ給ひければ、遊女随喜の涙をながしけり。
後に上人のたまひけるは、「この遊女、信心堅固なり。さだめて往生をとぐべし」と。帰洛のときここにてたづね給ひければ、「上人の御教訓をうけたまはりてのちは、このあたりちかき山里にすみて、一すぢに念佛し侍りしが、いくほどなくて臨終正念にして往生をとげ侍りき」と、人申しければ、「しつらんしつらん」とぞおほせられける。

 

引用が長かったけれども、この「しつらんしつらん」には、殊に絶対肯定の響きがあると思う。

 

観無量寿経に曰く、

明遍照十方世界念佛衆生摂取不捨

十方のあらゆる世界を遍く照らす光明が絶対肯定である。その光明が念佛者を捨て給わないので、念佛もまた絶対肯定の念佛である。

 

また思うに、これは思想化すべきではない。安心の感触とでもいうべきである。

 

 

 

南無阿弥陀