変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

信心とは決定なり

歎異抄 第1条 - WikiArc

一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。

 

たすけられまゐらせて」は、「往生をばとぐるなり」と「信じて」とにかかっている。阿弥陀佛の本願力によって、往生するのであり、かつ往生すると信じるのである。そして往生すると信じた時が、「念佛申さんと思ひ立つ心の起こる時」である。よってこの信心は念佛と共にある。

 

そしてまた、「念佛申さんと思ひ立つ心の起こる時」が決定の時である。

 

そもそも往生は阿弥陀様のところで既に決定している。それが我々のところでもまた決定するのが信心である。しかしその決定が得られないので悶々とするわけである。どうすれば良いのか。

 

それは念佛申すべきである。弥陀の本願に誓われた念佛にまさるべき善がないからである。また弥陀の本願を妨げるほどの悪はないからである。

 

弥陀の本願を信じた時、つまり信心決定した時、その決定が衆生の側ではなく如来様の側にあることを知る。したがって、決定の前には前後があるように見えるが、決定の後には前後はない。凡夫の決定ではないためである。

 

信心を要とすとしるべし」と言うのは、衆生が起こす信心ではないということである。信心とは決定のことであるから当然である。これを、法蔵菩薩所修の安心と、小生は言うのである。

 

重ねていうが、以上のことは自見の覚悟であり、真宗の所説ではない。