変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

行と信とそして念佛

大無量寿経に曰く、

設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆 誹謗正法

また曰く、

佛告阿難 十方世界 諸天人民 其有至心 願生彼國 凡有三輩 其上輩者 捨家棄欲 而作沙門 發菩提心 一向專念 無量壽佛 修諸功德 願生彼國 此等衆生 臨壽終時 無量壽佛 與諸大衆 現其人前 即隨彼佛 往生其國 便於七寶華中 自然化生 住不退轉 智慧勇猛 神通自在 是故阿難 其有衆生 欲於今世 見無量壽佛 應發無上菩提之心 修行功德 願生彼國

佛語阿難 其中輩者 十方世界 諸天人民 其有至心 願生彼國 雖不能行作沙門 大修功德 當發無上菩提之心 一向專念 無量壽佛 多少修善 奉持齋戒 起立塔像 飯食沙門 懸繒然燈 散華燒香 以此回向 願生彼國 其人臨終 無量壽佛 化現其身 光明相好 具如眞佛 與諸大衆 現其人前 即隨化佛 往生其國 住不退轉 功德智慧 次如上輩者也

佛告阿難 其下輩者 十方世界 諸天人民 其有至心 欲生彼國 假使不能 作諸功德 當發無上菩提之心 一向專意 乃至十念 念無量壽佛 願生其國 若聞深法 歡喜信樂 不生疑惑 乃至一念 念於彼佛 以至誠心 願生其國 此人臨終 夢見彼佛 亦得往生 功德智慧 次如中輩者也

 

上輩では「一向專念 無量壽佛 修諸功德 願生彼國」

中輩では「一向專念 無量壽佛 多少修善 奉持齋戒 起立塔像 飯食沙門 懸繒然燈 散華燒香 以此回向 願生彼國」

下輩では「一向專意 乃至十念 念無量壽佛 願生其國 若聞深法 歡喜信樂 不生疑惑 乃至一念 念於彼佛 以至誠心 願生其國」

 

ということで、下輩の文にあっては「〜願生其國」の文が二つあり、

前者は「一向專意 乃至十念 念無量壽佛 願生其國」

後者は「若聞深法 歡喜信樂 不生疑惑 乃至一念 念於彼佛 以至誠心 願生其國」

その中で前者には「念無量壽佛」、後者には「念於彼佛」とある。これの違いを考えてみると、後者の方に「歡喜信樂」とあるところから、これらは、後者は信を、前者は行を表しているものと思われる。

 

そして行であろうこの「一向專意 乃至十念 念無量壽佛」は、上輩中輩の「一向專念 無量壽佛」を開いたものと見えるところから、「念」を、「意」と「念」とに開いたものと思われる。そうするとこの「念」は、内にあるところの「意念」に対して外に現るるところの「称念」つまり口称の念であろうと思うのである。さらにこの「乃至十念」が第十八願の「乃至十念」の成就文であるとする小見によるならば、第十八願の行は称名念佛ということになる。

 

考えてみると、下輩の者に観想念佛は無理であるから、下輩の文の「念無量壽佛」が称名念佛であるのは自明ではなかろうか。そして第十八願の「乃至十念」が称名念佛ならば上輩中輩の「一向專念 無量壽佛」もまた称名念佛であろう。つまり念声是一という訳である。では大経に於いて「念」の語が「称」に替わっていないのは何故かというと、行と信とが離れていないからである。

 

 

 

南無阿弥陀

願成就文は重複している

大無量寿経の第十八願、第十九願、第二十願に曰く、

設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆 誹謗正法

設我得佛 十方衆生菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正覺

設我得佛 十方衆生 聞我名號 係念我國 殖諸德本 至心回向 欲生我國 不果遂者 不取正覺

またその成就文に曰く、

佛告阿難 (略) 諸有衆生 聞其名號 信心歡喜 乃至一念 至心回向 願生彼國 即得往生 住不退轉 唯除五逆 誹謗正法

佛告阿難 十方世界 諸天人民 其有至心 願生彼國 凡有三輩 其上輩者 捨家棄欲 而作沙門 發菩提心 一向專念 無量壽佛 修諸功德 願生彼國 此等衆生 臨壽終時 無量壽佛 與諸大衆 現其人前 即隨彼佛 往生其國 便於七寶華中 自然化生 住不退轉 智慧勇猛 神通自在 是故阿難 其有衆生 欲於今世 見無量壽佛 應發無上菩提之心 修行功德 願生彼國

佛語阿難 其中輩者 十方世界 諸天人民 其有至心 願生彼國 雖不能行作沙門 大修功德 當發無上菩提之心 一向專念 無量壽佛 多少修善 奉持齋戒 起立塔像 飯食沙門 懸繒然燈 散華燒香 以此回向 願生彼國 其人臨終 無量壽佛 化現其身 光明相好 具如眞佛 與諸大衆 現其人前 即隨化佛 往生其國 住不退轉 功德智慧 次如上輩者也

佛告阿難 其下輩者 十方世界 諸天人民 其有至心 欲生彼國 假使不能 作諸功德 當發無上菩提之心 一向專意 乃至十念 念無量壽佛 願生其國 若聞深法 歡喜信樂 不生疑惑 乃至一念 念於彼佛 以至誠心 願生其國 此人臨終 夢見彼佛 亦得往生 功德智慧 次如中輩者也

 

愚見の基になっているのは、願文と願成就文との間に対応する語句があるというものである。「乃至十念」「發菩提心」「至心回向」などの語句がそれぞれ願文と願成就文とに共通してあるが故に、それは対応しているものと単純に考えるのである。そうしてみると、願文が別個に立ててあるのに対して、願成就文の方は重複していると見るべきだと思うのである。

 

「唯除五逆 誹謗正法」とあるが故に、「諸有衆生〜」の文が第十八願の成就文であることは確かであり、願文の「至心信樂」は成就文の「信心歡喜」と対応しているのであろうけれども、成就文の「聞其名號」「至心回向」が第二十願の「聞我名號」「至心回向」に、下輩の文の「乃至十念」「歡喜信樂」が第十八願の「乃至十念」「至心信樂」に対応しているのも明らかであると思われる。

 

つまり、願成就文は重複しているのである。

 

それで色々と考えてみると、第十八願の「若不生者」の成就文は、「諸有衆生〜」の文の「即得往生」、上輩の文の「往生其國 便於七寶華中 自然化生」、中輩の文の「往生其國」、下輩の文の「亦得往生」であると思われる。

 

次に第十九願の「臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者」の成就文は、それぞれ上輩の文の「臨壽終時 無量壽佛 與諸大衆 現其人前」、中輩の文の「其人臨終 無量壽佛 化現其身 光明相好 具如眞佛 與諸大衆 現其人前」、下輩の文の「此人臨終 夢見彼佛」であると思われる。

 

そして第二十願の「不果遂者」の成就文は、「諸有衆生〜」の文、上輩の文、中輩の文それぞれの「住不退轉」であると思われる。ちなみにこの果というのが佛果の果であるという解釈を思いついたのだが、まあそういうことは無いようではあるが、ともあれ「果遂」が往生の先の成佛を含めてのことを指しているであろうと考えると、「住不退轉」は以前小生が考えていた往生に対する不退転ではなく成佛に対する不退転である。

 

つまりどういうことかというと、往生は「若不生者」とある第十八願の力であり、臨終来迎は「臨壽終時 〜 現其人前者」とある第十九願の力であり、不退転に住するのは「不果遂者」とある第二十願の力である。

 

さらに考えてみると、三輩の文は臨終時のことを述べられているので、「諸有衆生〜」の文は平生のことであろうと思われる。したがって「即得往生 住不退轉」とは平生に往生を決定してそのまま不退転に住するのであると思われる。これは第十八願と第二十願との成就である。

 

もう一つ、「諸有衆生〜」の文にある名号について考えてみると、第二十願の「聞我名號」「至心回向」の成就文が「聞其名號」「至心回向」であるなら、同じく第二十願の「係念我國 殖諸德本」の成就文は「信心歡喜 乃至一念」であろうと思われる。しかし「諸有衆生〜」の文は第十八願の成就文でもあるから第十八願の「至心信樂」の成就文は「聞其名號 信心歡喜」ということになると思われる。そうすると第十八願の「至心信樂」の成就文に第二十願の「聞我名號」の成就文が重なって含まれる、ということになる。

 

つまり、浄土門の信心には「聞其名號」弥陀の名号を聞く、ということが含まれるのである。ということは、その信心は必然的にその名号を称えることになると思われる。成就文の「乃至一念」が信の一念であるとともに称名の一念であることは当然の帰結ではなかろうか。

 

 というようなことが、成就文が重複していると見るところから考えられる訳である。

 

 

 

南無阿弥陀

彼国と其国

大無量寿経に曰く、

佛告阿難 十方世界 諸天人民 其有至心 願生彼國 凡有三輩 其上輩者 捨家棄欲 而作沙門 發菩提心 一向專念 無量壽佛 修諸功德 願生彼國 此等衆生 臨壽終時 無量壽佛 與諸大衆 現其人前 即隨彼佛 往生其國 便於七寶華中 自然化生 住不退轉 智慧勇猛 神通自在 是故阿難 其有衆生 欲於今世 見無量壽佛 應發無上菩提之心 修行功德 願生彼國

 

佛語阿難 其中輩者 十方世界 諸天人民 其有至心 願生彼國 雖不能行作沙門 大修功德 當發無上菩提之心 一向專念 無量壽佛 多少修善 奉持齋戒 起立塔像 飯食沙門 懸繒然燈 散華燒香 以此回向 願生彼國 其人臨終 無量壽佛 化現其身 光明相好 具如眞佛 與諸大衆 現其人前 即隨化佛 往生其國 住不退轉 功德智慧 次如上輩者也

 

佛告阿難 其下輩者 十方世界 諸天人民 其有至心 欲生彼國 假使不能 作諸功德 當發無上菩提之心 一向專意 乃至十念 念無量壽佛 願生其國 若聞深法 歡喜信樂 不生疑惑 乃至一念 念於彼佛 以至誠心 願生其國 此人臨終 夢見彼佛 亦得往生 功德智慧 次如中輩者也

 

この三輩の文が臨終来迎を誓われた第十九願の成就文であることは明らかであろうけれども、下輩の文は、乃至十念、歓喜信楽とあるので、第十八願の成就文を兼ねていると思われる。そしてこの三者の違いの要点をまとめると以下の如しである。

 

上輩者〜(其有至心 願生彼國)〜發菩提心 一向專念 無量壽佛〜願生彼國 此等衆生 臨壽終時〜往生其國〜住不退轉

 

中輩者〜其有至心 願生彼國〜當發無上菩提之心 一向專念 無量壽佛〜願生彼國 其人臨終〜往生其國 住不退轉

 

下輩者〜其有至心 欲生彼國〜當發無上菩提之心 一向專意 乃至十念 念無量壽佛 願生其國 若聞深法 歡喜信樂 不生疑惑 乃至一念 念於彼佛 以至誠心 願生其國 此人臨終〜亦得往生

 

 まず、其有至心 願生彼國が上輩の文の中にないのは繁を避けて省略されているものであろう。そして下輩の文だけが欲生なのはそれだけ下輩のレベルが低いことを表していると思われる。

 

次に、發菩提心は上輩だけであるのはこれが出家に関わるものだからであろうと思われる。中輩と下輩とが同じ當發無上菩提之心なのは、この心に含みと幅とを持たせてあるのだと思われる。あるいはまた、この心が衆生の心ではなく佛の心であることを表しているのかもしれない。そして當發とあるのは、この心が念佛以後に起こるものであることを表していると思われる。

 

次に、一向專念 無量壽佛であるが、これは下輩に至って乃至十念を加えて詳しく表現してある。恐らく、第十八願の乃至十念の成就文であろうと思われる。つまり、下輩こそが第十八願の正機であろうと思われる。若聞深法とは諸有衆生聞其名号のことであり、乃至一念とは安心決定往生決定の一念であると思う。

 

そして、上輩と中輩とが臨終前には願生彼國、臨終時に往生其國であるのに対し、下輩の者は臨終前にすでに願生其國である。この其國と彼國、其の国と彼の国との違いは、近遠親疎の違いがあると思う。つまり、下輩の者は臨終を待たずして往生を決定している。故に浄土は近くして親しいのである。下輩の者だけが亦得往生なのは、すでに往生を即得して決定しているからであり、すでに住不退転であるから、臨終には亦得として住不退転とは表記されていないのである。

 

一応は聖道門の価値観に従って上中下とあるが、浄土門からすれば下輩こそ正機であり、乃至十念の念佛こそ正行であり、若聞深法乃至一念こそ正信であり決定であり、即得往生住不退転である。

 

元祖上人曰く

十悪の法然房、愚痴の法然房が、念仏して往生せんと言うなり

 

そしてまた、この三輩の文を現代に置き換えて考えてみると、この下輩の者とは教団に居場所なき人々のことではなかろうか。この場合、教団とは宗教団体という意味である。

 

上輩とは教団の幹部のことである。中輩とは教団に奉仕する人々のことである。そして下輩とは教団にも居場所の無い人々である。教団に居場所は無いのであるが、浄土にはある。よって下輩の人々にとって浄土は、平生に於いてすでに彼の国ではなく、其の国と表現されている。

 

観無量寿経に曰く、

阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。

 

 

南無阿弥陀

其有衆生と諸有衆生

大無量寿経に曰く、

佛告阿難 其有衆生 生彼國者 皆悉住於正定之聚 所以者何 彼佛國中 無諸邪聚 及不定聚 十方恆沙 諸佛如來 皆共讚歎 無量壽佛 威神功德 不可思議 諸有衆生 聞其名號 信心歡喜 乃至一念 至心回向 願生彼國 即得往生 住不退轉 唯除五逆 誹謗正法

 

色々と検索して調べてみると、正定之聚とは正定聚で不退転と同じと解釈されているらしい。しかし正定聚の本来の意味は集まりを指すとある。そして諸有衆生の諸有には「あらゆる」と訓が施してある。つまり、諸有衆生がすべてを表すのに対し、其有衆生は部分または限定された衆生を表していると思われる。そこで、

 

其有衆生 生彼国者〜住正定聚

諸有衆生 聞其名号〜住不退転

 

というふうに、単純に考えてみると、住正定聚は淨土におけることであって、住不退転は娑婆でのことであると思う。両方が淨土もしくは娑婆でのことだとすると、其有衆生と諸有衆生との違いがなくなると思うのである。経文は区別してあるのであるから、当面の意味としては区別された意味があるはずである。

 

そして諸有衆生が娑婆のことならば、即得往生は往生するということではなく、往生を決定するということだと思われる。即得ということであって、即往生ではない。

 

また諸有衆生とは、単に全てという意味だけではなく、諸々の個個の衆生という意味だと思われる。また淨土においては諸々の邪聚や不定聚が無いとならば、娑婆においてはあるということである。

 

つまり、念佛者は淨土においては成佛が定まった確かな人々と共にあり、娑婆においては間違った人々やあやふやな人々の中で一人往生を決定して不退転に住する。ということであろうと思われる。

 

生彼国者は其有衆生の条件であろうけれども、聞其名号は諸有衆生の条件ではない。あらゆる衆生であるからである。そうすると信心歓喜も乃至一念もまた条件ではない。条件ではないから、それは衆生が起こさなければならない心ではない。それは念佛の行者に現れるものだと思われる。

 

乃至一念は信心の一念で決定の一念だと思うが、聞其名号とあるからにはそれは称名の一念でもあると思う。名号を聞いて現れる一念は称名にならざるを得ないはずで、つまり念佛である。

 

その念佛の一念に至心回向願生彼国は含まれると思う。そもそも回向とか、菩薩様はともかく、凡夫にできることなのだろうか。できたとしても、ここに至心とあるから、これは衆生の心ではないのではないかと思われる。ちなみに真宗の解釈ではこの回向は如来様が起点となるが衆生を起点として考えても問題はないと思う。選擇集には善導大師の六字釈を引いて不回向とありそれからしても、この一念に至心回向は含まれると思われる。

 

つまるところ、信心歓喜も至心回向も乃至一念に集約すると思うのである。諸有衆生が乃至一念する、そこが即得往生するところで住不退転のところである。往生を即得して不退転に住する。つまり、往生一定ということである。これは、命終時の往生を平生に決定してその往生を遂げるまで不退であるという意味である、と思う。

 

これは要するに、念佛するもの往生す、ということである。

元祖様曰く、

念佛申すものは必ず往生すと知るばかりなり

ただ平に佛語を信じて念佛すれば往生するなり

ただ念佛申すもの往生はするとぞ、源空は知りたる

 

これは阿弥陀佛の威神功徳不可思議なることである。

 

 

 

南無阿弥陀

安心の系譜

選択本願念仏集 ~ 【第一】に曰く

而るに今言う所の浄土宗に、師資相承血脈の譜有りや。答えて曰く、聖道家の血脈のごとく、浄土宗にもまた血脈有り。ただし浄土一宗において、諸家また同じからず。いわゆる廬山の慧遠法師と、慈愍三蔵と、道綽・善導等とこれなり。今且く道綽・善導の一家に依って、師資相承の血脈を論ぜば、これにまた両説有り。

一には菩提流支三蔵・慧寵法師・道場法師・曇鸞法師・大海禅師・法上法師なり。 已上『安楽集』に出づ

二には菩提流支三蔵・曇鸞法師・道綽禅師・善道禅師・懐感法師・小康法師なり。 已上『唐宋両伝』に出づ

 

これを見ると、元祖上人は師資相承の血脈をこれと定められているわけではない。血脈があるとされているだけである。それは禅宗のような面授口訣では無く、言わば思想の系譜である。また真宗七高僧のように龍樹菩薩と世親菩薩が入っていないのは、佛教において宗というものが天竺においてはまだ成立していなかったからであろう。恵心僧都が入っていないのは彼が天台宗の僧だからだろうか。

 

選択本願念仏集 ~ 【第十六】に曰く

偏に善導一師に依るなり。

大唐相い伝えて云く、「善導はこれ弥陀の化身なり」と。

善導の『観経の疏』は、これ西方の指南、行者の目足なり。

ここにおいて貧道、昔この典を披閲してほぼ素意を識り、立ちどころに余行を舎てて、ここに念仏に帰す。

 

おそらく、思想の系譜は既にあるが、安心はまたそれとは別、ということだろう。観経疏の前には佛説の浄土経典がある。この佛説-善導-元祖の流れは安心の系譜と呼んで良いと思う。

 

歎異抄 第二条 に曰く

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。

 

これもまた安心の系譜であり、選擇集と符合すると思うのである。

 

 

南無阿弥陀

如來常住

思うに、佛教には大きく分けて二つある。在世佛教と滅後佛教とである。そして大乗とは、滅後佛教の在世佛教への回帰運動であろうと思うのである。つまり、歴史的人格としての如來の不在と和合衆たるべき教団の分裂という問題の解消である。

 

これは全くの想像なのだが、この問題の解消の原動力となったのが、如來常住と言われる思想であったろうと思うのである。如來が常住ならば、歴史的人格の不在は補える。そして如來が常住ならば、その僧衆もまた常住である。すなはちそれは、淨土である。分裂なき和合衆が、淨土にあるわけである。

 

つまり、淨土思想というのは大乗佛教の根幹をなす、と、淨土門の末流のその泡沫を自認する小生は思うのである。

 

 

南無阿弥陀

佛教における最初の念佛

史上最初の二帰依について。

在家 - Wikipedia

タプッサとバッリカという二人の商人が麦菓子と蜜団子を寄進して帰依し、最初の在家信徒になった。

[mixi]律蔵 「ゴータマ伝1」 悟後の坐禅・梵天勧 - 原始仏典 | mixiコミュニティ

「ここにわたしたちは、先生と教えとに帰依します。先生、わたしたちを優婆塞(うばそく、ウパーサカ、仕える者の意)として受け入れてください。今日よりはじめて命尽きるまで帰依します」と。
 彼らは世間においてはじめて二帰依を唱えた優婆塞であった。  

仏教の実質的始まりはいつか

>パーリー原典・・「ブッダとダンマに帰依します。」

51 ブッダの理念をバラモンが理論化した : ゴータマ・ブッダの人と思想

ここにわれらは尊師と法とに帰依したてまつる。

三帰依文はどの経典からきている句なのですか?? - 帰依文自体... - Yahoo!知恵袋

この無言のままの説法、無言説による教化は、太古より今日に至るまでインドの宗教的実践のもっとも一般的な方法であるそうです。

【3】善来具足戒法の制定と帰依の対象としての サンガ(僧宝)の形成

「法宝」 は 「仏宝」 と 同時に世尊の成道によって成立したと考える と 、 「法宝」の「法」は世尊の「説かれた教え」ではなく、 仏と法は相即しているのであっ て 、 仏の根底にある仏によって悟られた法、 仏を仏ならしめているところの法を意味してい るということになる。

 

「法」は、 「仏のよく説かれた法」としているから、初転法輪などにおいて 説 かれた四諦の法などを指すかとも考えられるが、 「現によく見られ、 時を超越し、来て見 られ 、 導き、 それぞれに知者が了解するもの」とされるから、説かれた教えに内在する真理 のようなものをいうのであろう。

 

「法宝」はゴータマ・ ブッダの悟った理法としての法で、四諦八正道などの実際に説かれた教えに内在する真理として法であり、

 

つまり、タプッサとバッリカという二人の商人は、未だ説かれていない法を認識したということではないのか、ということである。つまり、佛は法であり、法は佛である。

 

帰依 - Wikipedia

南無帰依仏
南無帰依法 

 

Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
(私はブッダ(仏)に帰依いたします)
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ダンマン・サラナン・ガッチャーミ)
(私はダンマ(法)に帰依いたします)

 

要するに、これは念佛であり、初転法輪を佛教の初めだとするならば、佛教以前ということになる。

 

そしてまた考えてみると、これはまだ歴史的事実であり、宗教的事実としては、そしてまた二種深信が縁起の法縁滅の法と対応しているという小見によれば、釈尊の正覚こそが最初の念佛ではないかと思うのである。

 

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南無阿弥陀