宗教的事実と歴史的事実
宗教的事実と歴史的事実とを混同してはいけないと思う。これらを混同するから迷信とか盲信とかになってしまうのだろうと思う。
宗教的事実とは、釈尊が正覚を得て佛となったということである。歴史的事実とは、釈迦族出身のゴータマ・シッダッタが29歳の時に国と王位と妻子とを捨てて出家し、35歳で悟りを開いて佛となったと自称し、教えを説いて教団を形成し、80歳で亡くなった、というあたりであろう。
大乗経典を例にとれば、経典自体の存在は歴史的事実である。しかしその内容は宗教的事実であって、歴史的事実ではない。無量寿経には釈尊を姿色不変と表現してある。観無量寿経には、是心是佛とある。佛というものをこのようなものとしてあるからには、これは歴史的存在ではないのである。
念佛者には安心決定ということがある。自己が何者かというのは歴史的事実であろうが、安心決定は宗教的事実である。したがって、その安心の根拠は歴史的事実にはなく、宗教的事実にこそある。明らかに歴史的事実ではない弥陀の本願に、その根拠はあるのである。
念佛者に於いて、安心決定という現実感は、弥陀の本願という宗教的事実によってあるのである。