釈尊の悟りと念佛の安心
[mixi]ゴータマ伝1 「悟後の坐禅」(本文のみ) - 原始仏典 | mixiコミュニティ
上のサイトからの引用。
(日没時の詩 )「実にダンマ(注)が、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」
(真夜中の詩) 「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」
(夜明けの詩)「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」
(『ウダーナ』より、玉城康四郎訳)
(注)「ダンマ」はパーリ語。サンスクリット語では「ダルマ」。漢語では多くの場合「法」と訳される。
さて、昨日の記事の続きである。
上記は、釈尊の悟りについての経文である。これが十二縁起との関連から、浄土門で云う、念佛の安心(あんじん)であるところの二種深信に相当すると思うのである。
要するに。「縁起の理法」とは、十二縁起における流転門であろうと思う。そうするとこれは、機の深信に相当する。「縁の消滅」とは、十二縁起における還滅門のことであろうと思う。そうするとこれは、法の深信に相当する。では「あたかも太陽が虚空を照らすごとく悪魔の軍隊を粉砕して安立している」ものとは何か。思うに、それは弥陀の名号である。
二種深信の中には、縁起の法も縁の消滅も無いのだが、縁起の法が生死する存在としての自己を表しているのならば、それは機の深信である。縁の消滅が生死の滅たる自己を表しているのならば、それは法の深信である。この二つの信を得た念佛者にとって、あたかも太陽が虚空を照らすごとく悪魔の軍隊を粉砕して安立しているものがあるとすれば、それは弥陀の名号をおいて他にはない。
南無阿弥陀佛