念の心を悟る
学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。
いとー日記:元祖大師御法語前編3「聖浄二門」その2 - livedoor Blog(ブログ)
彌陀如来の、本願の名号は、木こり、草刈り、菜摘み、水くむ、たぐいごときのものの、内外ともに、かけて、一文不通なるが、称うれば、必ず生まると信じて、真実に願い、常に念仏申すを、最上の機とす。
法然聖人絵(弘願本)
源空が念佛も、あの阿波介にまったく同じことなり。もしさりとも、少しはかはりたるらんと思はん人は、つやつや念佛を知らざる人なり。金は錦につつめるも、藁苞につつめるも、同じ金なるが如し。
この「念の心を悟りて」だが、これは単に、知識だけを言われているのではなく、所謂宗教体験を含めて言われているものだと思う。つまり、浄土門の思想を正しく学んだ上での念佛でもなく、いくばくかの宗教体験の上での念佛でもない。ましてや、小生如きの知識や経験など、全く必要ないのである。