変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

二つの個

親鸞とパウロ』という本がある。買ったその頃はわかったような気になって二読三読したものだが、久しぶりに改めて読んでみるとよくわからない。検索して関連した記事を読んだのだが更にわからない。

 

超個の個、不可分不可同不可逆、第一義の接触第二義の接触、などということが載っている。どうも禅定による本来の自己に目覚める体験がないとわからないもののようであるが、わからないなりにここに感想というか愚見を述べてみる。

 

或いは佛と衆生、或いは神と人、これらを超個と個として、或いは本来の自己、或いは内なるキリスト、に目覚めた「超個の個」、ということらいしいのだが、この「個」というものには実は二つあるのではないかと思うのだ。それは世俗的個と宗教的個と仮に名付けるものである。

 

世俗的個というのは、無明-生死の個であり、常没常流転の個である。宗教的個というのは、無明の滅-生死の滅の個であり、定得往生の個である。また、世俗的個というのは浄土門に帰せずして念佛申さぬ個であり、宗教的個というのは浄土門に帰して念佛申す個である。

 

第一義の接触とは弥陀の本願のことであろうし、第二義の接触とは一念決定して念佛申すことであろうから、この二つの間が不可分不可同不可逆というのは頷けることである。しかし、超個と個との関係では、「超個の個」ならば、その関係が不可分不可同ではあっても不可逆とはならないのではなかろうか。もしこれが不可逆なら、往生も成佛も不可ではなかろうか。

 

そこで思うに、「個」とは世俗的個のことであり、「超個の個」とは宗教的個のことである。不可分とは超個と宗教的個のことであり、不可同不可逆とは超個と世俗的個のことである。この世俗的個がそのままで宗教的個であるというのが、浄土門の安心決定である。

 

超個と世俗的個とは不可同不可逆であり、更にいうなら断絶している。世俗的個にとっては神も佛も無い。信仰も信心も無い。あるのは夢物語であり、つまるところ妄想である。喜びも無く、光も無く、安らぎも無い。経典に言う所の五濁悪世である。

 

宗教的個というのは「超個の個」であり不可分であり、光明遍照であり、摂取不捨であり、如来常住であり、悉有佛性であり、歓喜信受であり、往生一定であり、一文不知である。随順佛願であり、随順佛語であり、随順祖語である。

 

そしてこのような二つの個が一つの人格にある。という訳の分からない状態が念佛の安心である。

 

とまあ訳の分からないことを書いてみたが、大事なことは、阿弥陀様に助けられることである。

 

 

南無阿弥陀