理性と知性とについて
理性とは知性とは何か。改めて調べてみるとよく分からない。そこで簡単に定義付けてみる。即ち、理性とは善悪を判断する能力であり、また知性とは損得を勘定する能力である、と。
歎異抄に曰く、
善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。
つまり、浄土門にて言うところの煩悩具足の凡夫、罪悪生死の凡夫とは、理性なき我々のことである。
我々は善悪を知性、つまり損得勘定で判断している。善悪で判断しているのではない。理性がないからである。そして知性は理性に及ばないために間違うのである。
思うに、宗教における信仰もしくは安心は、理性の働きを代用するものではなかろうか。もし人が、悪とされるものをなさないとするなら、その人は理性のある稀な人か、何がしかの信仰を持つ人であろう。
何が善で何が悪か、突き詰めて考えるとよく分からないが、なんとなく善である方へと心が向いて行くのは、理性ではなく、信仰なり安心なりの働きではないかと思うのである。
ただし、小生がそうであるかどうかは分からない。
南無阿弥陀佛