変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

宗>教

おおよそ、宗教には二つあると思われる。一つには、教が宗である、教えそのものが宗である場合。二つには、教が宗を教え示すためのものである場合。

 

記号を以って表すならば、

 宗=教

 宗>教

である。

 

他教他宗は知らず、浄土門は、後者である。では、浄土門において、宗とは何か。聖教においてはいろいろと言われている。あるいは曰く、厭離穢土欣求浄土。あるいは、選擇本願。あるいは、一心専念弥陀名号。

 

愚見によれば、浄土門に於ける宗とは、生死を出離することであり、即ち、浄土に往生することであり、その往生を決定することであり、その決定往生の安心を得ることである。その安心は、称名に依り、名号に依る。つまるところ、弥陀の本願に依る。これを大願業力という。経には、威神功徳不可思議とある。

 

さて、佛教が宗>教であることは、他宗にも見られ、真宗の語録などにも顕著であるが、ここはあえて元祖大師の御法語から引用してみる。

 

往生のためには念佛第一なり。学問すべからず、ただし念佛往生を信ぜんほどはこれを学すべし。

 

ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、聖にて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家にゐて申すべし。自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居して申すべし。

ドグマ酔い

思想に囚われてしまうことを、昔から教条主義とか原理主義とかいうらしいが、小生はこれを「ドグマ酔い」と名付けてみた。これにかかると、精神が柔軟性を失い、思考が定型化して、短絡した発言を成すようになるようである。月をさす指という言葉があるように、指という思想に囚われてしまい、月という真理が見られなくなってしまうのである。

 

聖教を読み、少しでも理解できるようになると、だいたいこれにかかる。というか、小生がそうであり、このブログを書いているわけである。自分ではよくわからないが、割と気持ちいいらしい。

 

信者めぐり -肥後 原口針水師の法話- より

和上また曰く、「たのむ一念は二番だぞや」と仰せられたので、この同行達は色をなした。

一体岡崎の文五郎同行は理屈家で御定判一点張りの裃同行であるから、針水和上だろうが、勧学だろうが御当流の一番大切のたのむ一念を、二番だなぞと云うは以ての外だ。こんな話は聞かぬがよいとて、宿へ帰った。

翌日また和上が、「染め付いた垢は一度では落ちまいから」とて、常行大悲の御親切より、また態々お出かけ下され、御化導下されたれど彼の同行は終日顔を出さずして、和上がお帰り後にまた来られて、そしてその同行が懐中より御聖教を出し、「針水和上が有り難い、何が有り難いと云うても、これより上の物はない」と云うて、同行達はその翌日は帰国した。

私は後に残った二名の同行と、和上の許へ御礼に伺うて、「この程の御化導に、たのむ一念は第二番だぞやと仰せられるは、どういうことでござりますか」と申し上げると。

和上は勢いするどく、「たのむ一念ばかりか、信心も安心も二番だぞ。ただ如來の仰せだけ、即ちお助けが一番だぞや」

 

思うに、かつてあった一念多念の争いも、ドグマに酔っていたのであろう。 

 

一枚起請文には、

智者のふるまいをせずしてただ一向に念佛すべし

一言芳談には、

念佛宗は、義なきを義とするなり。

とある。これらはドグマに酔う事を戒められた法語である。

 

念佛の法門は、称名が安心であり、名号が安心であり、如来様が安心である。これらは思想以前のことであり、そこにドグマはない。

断絶と連続

佛と衆生との関係は、断絶と連続であり、浄土門においては二種深信として表される。

一者決定深信:自身現是罪惡生死凡夫,曠劫已來常沒常流轉,無有出離之緣;

二者決定深信:彼阿彌陀佛,四十八願,攝受衆生,無疑無慮,乘彼願力,定得往生。 

以下小生の訓。

一つには決定して深く信ず、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫巳来、常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと。

二つには決定して深く信ず、彼の阿弥陀佛は四十八願をもって衆生を摂受したまふ、疑ひ無く慮り無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と。

 

「出離の縁あることなし」ということは断絶しているのである。「定得往生」ということは連続しているのである。

 

断絶しているならば連続ではなく、連続しているならば断絶ではないけれども、断絶したそのままで連続している。

 

無明は無明のままで無明の滅があるのである。生死は生死のままで生死の滅、つまり往生があるのである。世俗の凡夫は世俗の凡夫のままで往生を決定するのである。

 

考えれば考えるほど、あれおかしいなとなるが、弥陀の願力でそうなっているのでしょうがないのである。浄土の安心、出離生死の安心は不可思議である。娑婆の論理は、娑婆を超えようとするときには通用しないのである。

 

信者めぐり -美濃 おゆき同行- より

「けれども何処まで行かれるか知らぬが、もしやこの後において、いよいよこれでこそ得たナアというのが出来たら、如來聖人とお別れぢゃと思いなされ、もとのすがたで帰っておくれたら、御誓約通りゆえ、さぞや御真影樣はお喜びであろう」

 

信者めぐり -三河 吉蔵同行- より

「唯ぢゃげな嬉しいなー嬉しいなー」と、独り言を云いながら、御寺より下向せられた。

その姿を見つけたる女同行、吉蔵様へ飛び付き、「貴方は唯ぢゃげな唯ぢゃげなとお喜びなさるが、私はそれがわからぬので困ります」
「イヤお前もわからぬか私もわからぬ、唯ぢゃげな嬉しいな嬉しいな」
「サアそれがわからぬのであります。貴方のわからぬと仰せられるのと、私のわからぬとは違います。私のわからぬのは困る一方で嬉しいことはありませぬ。どうぞわからぬと云わずに一言お知らせ下されませ」とお尋ねをした。

「イヤ本当におれもわからぬがのう。これがわかって来いならどうしましょう、わからぬなりで出て来いよと呼んで下されてこそ、まるまる唯ぢゃげな、嬉しいのう嬉しいのう」と、喜びながら帰られたとある。

 

信者めぐり -三河 おその同行- より

三州高棚村空林寺、ある事情のために、同行衆の計らいにより、田原のおそのさんを招待した。
院主、「この度御苦労かけたは余の儀ではない。恥かしいことには坊主に生れながら、私に佛法がないばかりで、只今困っている事情がある。どうぞ佛法に入る近道を聞かせておくれ」
その、「わたしも佛法は少しもない、ないゆえ佛法樣に助けられるが嬉しい」
院主、「そんな薄情なことを云わずに、意見してなりと聞かせておくれ、本真に私には佛法はないのである」と重ねてお願いをした。
その、「わたしに佛法があると思うて呼び付けなさったか、それが間違いというものぢゃ。嘘でもなんでもない、わたしには微塵ばかりも佛法はない、ないゆえ佛樣に助けられるが嬉しいより外はないわいのう。マア今日は寒いで帰ります、御免なされ」と、一礼を述べてすぐ帰られた。

院主、同行衆に向かい、「坊主というものは悲しいものぢゃ。両手をついて尋ねても聞かせてくれぬ」と、右の次第を物語りた。

同行手を打って喜び、「それほどうまいことを聞かせて貰うて、それが食われぬと云うは、貴方に佛法がないからぢゃ。これから聞いて佛法があるようになってからの往生は回り道、今の佛法のないままで助けられる、これほどの近道を教えてくれる御方が何処にあろう」

 

信者めぐり -讃岐 庄松同行の物語- より

「たのむ一念を一口お聞かせ下さい」
庄松曰く、「それは佛の云うことぢゃ、俺は知らぬ」

 

香樹院語録 一六一 より

「凡夫の身ぢゃもの、地獄へ墮ちることは今更のことでない、当たり前のことぢゃ。その必定して地獄に墮ちるものをそのままたすけると仰せられるのが、阿弥陀樣の勅命ぢゃ。それでも勝手に地獄へ行くのか」

 

元祖和順大師 勅修御伝巻二十一 より

つねに仰せられける御詞

「われはこれ烏帽子もきざる男なり。十悪の法然房、愚癡の法然房の、念佛して往生せんと云ふなり。」

 

元祖和順大師 一言芳談 より

つねの御詞に云く。「あはれこの度しおほせばやな」と。
その時乗願房申さく。「上人だにも斯樣に不定げなる仰せの候はんには、ましてその余の人はいかが候ふべき」と。
その時上人うちわらひてのたまはく。「蓮臺にのらんまでは、いかでかこの思ひはたえ候ふべき」云々。

 

佛説無量寿経 巻下 より

易往而無人(往き易くして人なし)

 

以上、思いつくままに並べてみた。

南無阿弥陀

機法一体

機法一体とは何ですか?

浄土教における「機法一体」について

 

機法一体という言葉を知ったのは、安心決定鈔からだったと思う。

浄土門にあって、浄土門の色合いが薄いこの言葉によって、当時、神話的表現に多少の抵抗があった自分にとって、とても助かったのだと今さらながら思う。

 

機法一体。およそ宗教の安心ならば、宗派の別に依らず、この言葉によって端的に表せるものではないだろうか。

 

これは西山派の功績であり、元祖上人の御法語にはないものである。ただ、元祖の御法語の中にそれっぽいものがないわけではない。曰く、

 

月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ

 

往生は称名なり、称名は正覚の業なり 

 

異論は認める。というか、こちらが異論なので、認めて欲しいところである。

 

ただ小生の思うところ、これは浄土門の安心の連続面を端的に表現してはいるが、断絶面を表してはいない。いわゆる二種深信のうちの、法の深信を表していると思うのである。

思想は所詮思想に過ぎない

法然、親鸞の師弟関係に「不適切な記述」 浄土宗、倫理教科書調査へ:イザ!

親鸞が師匠である法然の教えを「徹底」または「発展」させたと解説している。

 

思想としてみればそうではあるが、しかしそれはそれぞれの流派で発展させているので、真宗に限ったことではなかろうと思う。ただ世間の一般的な見方が、真宗の方が優れているように見えるというだけのことである。実は小生にもそう見える。何しろ鎮西や西山についての書籍が少なすぎる。インターネットで検索をかけても、初めに出てくるのはほとんど真宗のサイトである。検索の仕方も悪いのだろうが、諸宗の方々はもっとインターネットに聖教を開放しても良いのではなかろうか。もっとも、読んだところでわからんのかもしれないが。

 

小生の場合はそれだけではなくて、鈴木大拙の影響もあり、初めから真宗を元祖とは別物とは捉えなかった。真宗の聖教には、他には伝わっていない元祖の御法語があり、また、これは鈴木大拙も評価しているが、来迎を頼まずということがある。この来迎ということは、御法語にはあるが一枚起請文にはないことなので、小生も頷くところである。

 

ところで、管見の及ぶところ、また仄聞するところ、また愚考するところによると、元祖の御門弟に共通する課題は、聖道門をどうするか、というものだったのではないかと思う。聖道門をどう解釈し、どう位置づけるか。これがそれぞれの門流の教学となっていったものだろう。それは、佛教の歴史の中に浄土門をどう位置付けるか、ということでもあっただろう。

 

しかしそれは、教学としては必要だったかもしれないが、一念佛者の安心にとっては、あまり関係ないことのようである。元祖大師は、選擇集を読まなければならないとは言われていないからである。そして思想としての徹底や発展は、もしかすると、安心にとっては退化かもしれないからである。

 

一言芳談 七十九: Blog鬼火~日々の迷走

念佛宗は、義なきを義とするなり。

 

義というのは、愚見によれば、鎮西義、西山義、真宗義、時宗義、とかの義である。前にも書いたけれども、よって「義なきを義とす」とは、思想以前ということである。

 

浄土門の安心は、元祖の時点ですでに完結している。というかむしろ、阿弥陀様の時点ですでに完結している。これを様々に言いなすだけである。

報佛の因果

安心決定鈔 - WikiArc

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。

仏説 無量寿経 (巻上) - WikiArc

行業果報 不可思議 諸佛世界 亦不可思議。其諸衆生 功徳善力 住行業之地。
 行業の果報不可思議ならば、諸佛世界もまた不可思議なり。そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す。

 

これを小生は「報佛の因果」と名付ける。衆生の因果ではないからである。

 

そして得られるこの安心を、「法蔵菩薩所修の安心」と名付ける。衆生が修行して作る安心ではないからである。

 

この安心は、称名に依り、また名号に依る。これを称名安心と名付け、また名号安心と名付ける。これは自帰依自灯明、法帰依法灯明である。

 

また、称名に依るとは、多念相続であり、名号に依るとは、一念決定である。

 

また、相続に三あり、決定に六あり。相続に三ありとは、一つには説法を聞いて称える。二つには、何事もなくとも、自然に縁ぜられて称える。三つには、口に称えざれども相続する。ただし、口称を本とする。決定に六ありとは、一つには弥陀本願決定、二つには釈尊所説決定、三つには諸佛証誠決定、四つには善導御釈決定、五つには元祖立宗決定、六つには凡夫信心決定。

 

これらは皆、報佛の因果である。

 

以上は無智無学の小生の料簡に過ぎない。元祖以来、諸派の宗義にはそれぞれ歴史の積み重ねがあり、とても愚生の及ぶところではないのだが、むしろそれ故に、自分なりの咀嚼の結果、以上のようなことになった。

 

よって小生の見解は、鎮西にあらず、西山にあらず、真宗にあらず、ただ小生だけのものである。それは恰も、小生の人生が小生だけのものであるように。

 

これを、法蔵菩薩所修の安心という。

宗教と科学

宗教と科学とは、本来、対立するものではない。それを、宗教の領域で科学を語ったり、科学の領域で宗教を語ったりするから、おかしくなるのではなかろうか。

 

科学は結論が決まっていない。理論と実験とを重ねて結論を出す。当然、結論が変わることもありうる。

 

しかし、宗教は結論が決まっている。確か、折原脩三という人がそう書いていて、なるほどと思った。

 

浄土門でいうなら、念佛するもの往生する、である。これを科学することはできない。

 

例えば、念佛者の脳波を調べることはできるだろうが、機の善悪に関わらない、というのが浄土の宗旨なので、脳波がどのような状態だろうが宗教的には意味をなさない。

 

所詮、科学というものは、娑婆の中の話である。それは幾億光年先の宇宙であっても娑婆である。その娑婆を出ようというのが佛教なので、その時には、科学は全く役に立たない。その領域が違うからである。