変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

如来よりたまはりたる

歎異抄 後序 - WikiArc

源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。

 

これは元祖のお言葉ではあるが、真宗の聖教にしか伝わっていない。恐らく、決定を得ていない同門の方々には理解できなかったのだろう。もっとも、もし小生がその場にいたとしても、親鸞聖人を非難する側に立ったろうとは思う。

 

後世のものたる自分には、歎異抄はすでに権威であるから、なるほどとわからないながらも頷けるが、その場にいた人々にとっては衝撃ではなかったろうか。少なくとも親鸞聖人にとっては。否むしろ、後に宗祖と仰がれるような人物だったからこそ、この御法語が領受できたのではなかろうか。

 

元祖の御法語の多くは、念佛に関することで、信心のみに言及されることは余りない。してみると、この時点で、親鸞聖人は信心を思想として捉えられており、そして元祖はそれを認めておられるような気がする。

 

もともと、選択集を授与されるような方々は、元祖の説法を一歩進んで領解されているのではなかろうか。真宗義における他力回向の思想も、そういうものの一つなのではないかと、思う。

 

それにしても、親鸞聖人の御門弟の方々は、元祖からの口伝をもってその説法を聞かれていたわけである。そして真宗の法を、元祖からの口伝をもって領解されていたわけである。如来よりたまはりたる信心によって。

 

これが口伝の真信であり、摂取不捨の利益である。