変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

帰依するということ

愚、案ずらく。帰依とは依存である。

 

依存症という言葉があるくらいで、依存という言葉に良い印象はないのだが、しかし、帰依とは、依存であると思うのである。

 

自帰依法帰依で言えば、自己に依存し、法に依存するということである。

 

浄土門で言えば、称名に依存し、名号に依存する、ということである。これが念佛に帰依するということであり、阿弥陀如来に帰依するということなのだ。

 

 

南無阿弥陀

理性と知性とについて

理性とは知性とは何か。改めて調べてみるとよく分からない。そこで簡単に定義付けてみる。即ち、理性とは善悪を判断する能力であり、また知性とは損得を勘定する能力である、と。

 

歎異抄に曰く、

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。

 

つまり、浄土門にて言うところの煩悩具足の凡夫、罪悪生死の凡夫とは、理性なき我々のことである。

 

我々は善悪を知性、つまり損得勘定で判断している。善悪で判断しているのではない。理性がないからである。そして知性は理性に及ばないために間違うのである。

 

思うに、宗教における信仰もしくは安心は、理性の働きを代用するものではなかろうか。もし人が、悪とされるものをなさないとするなら、その人は理性のある稀な人か、何がしかの信仰を持つ人であろう。

 

何が善で何が悪か、突き詰めて考えるとよく分からないが、なんとなく善である方へと心が向いて行くのは、理性ではなく、信仰なり安心なりの働きではないかと思うのである。

 

ただし、小生がそうであるかどうかは分からない。

 

 

南無阿弥陀

三尊

阿弥陀三尊 - Wikipedia

観音菩薩阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる。

 

ということで、なるほどそうなのかと思うものでもあるのだが、また例によって何となく思いついたのだ。つまり、観世音菩薩は縁起の法に、大勢至菩薩は縁滅の法に配当されているのではないだろうか、と。

 

根拠はほとんどない。あえて言うなら、現世利益の印象と真宗の和讃からの印象とに拠っているのだろう。

 

自分で思いついておいて自賛してしまうが、これは当たっているような気がしてならない。釈尊の開悟七日の三つの偈に当てはまっていると思うのだ。

(日没時の詩 )「実にダンマ(注)が、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」
(真夜中の詩) 「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」
(夜明けの詩)「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」
(『ウダーナ』より、玉城康四郎訳) 

 

インド文明の特性なのか、大乗佛教の特性なのかは分からないが、おそらくはそれに従って、それぞれに菩薩様が配当されているのではないだろうか。

 

南無観世音菩薩

南無大勢至菩薩

南無阿弥陀

選擇護念

選擇護念という言葉があったはずであるが、出典がよく分からない。

【第十五】六方諸仏護念篇 | 浄土宗【公式WEBサイト】

大元は上のリンク先だと思う。

現世利益和讃、というものもある。

毎日の浄土真宗 現世利益和讃

 

思うのだが、どうも守られているような気がするのである。それなりに不運なことにも遭うのであるがなんとなく守られているような気がする。これはそういう感覚なので、もし検証ができるとするなら、別にどうということもないのだろうとは思う。

 

大げさに言うなら、この感覚は、如来常住や摂取不捨などに通じるもののように思うのである。してみると、これは大乗仏教の発達の要因の一つなのかも知れない。

 

もっとも、単なる妄想ということもありうるのだが。

信知

選擇本願念佛集 第八章段に曰く、

深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。

 

深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知し、今弥陀の本弘誓願、名号を称すこと、下、十声一声等に至るに及ぶまで、定んで往生を得と信知して、乃至一念も疑心有ること無し。

 漢文だと以下の如し。

言「深心」者,即「深信之心」也。亦有二種:一者決定深信:自身現是罪惡生死凡夫,曠劫已來常沒常流轉,無有出離之緣;二者決定深信:彼阿彌陀佛,四十八願,攝受眾生,無疑無慮,乘彼願力,定得往生。

 

深心,即是真實信心。信知自身是具足煩惱凡夫,善根薄少,流轉三界,不出火宅;今信知彌陀本弘誓願,及稱名號,下至十聲一聲等,定得往生,乃至一念無有疑心,

これらは、浄土門の偉大なる祖師、唐の善導の著作、観経疏と往生礼賛とからの引用である。この二つの間に思想の浅深があるのかどうかはわからないが、「決定深信」と「信知」とが同じ事態を指していることは間違いなかろうと思われる。そこで、「深信」と「信」とが対応しているであろうから、「決定」と「知」とが対応しているのであろうと思われる。つまり、決定するということは知られることなのである。知られたということは決定したということなのである。

 

 勅修御伝に曰く、

念佛申すものは必ず往生すと知るばかりなり。

 

ただ念佛申すもの往生はするとぞ、源空は知りたる。

 

小生思うに、信知とは、未だ知らざるを信ずるのではなく、すでに知られたことを信ずるのである。それは何かといえば、不出火宅と定得往生とが自身に知られるのである。そしてそれは決定である。

 

 

南無阿弥陀

知情意

知情意というのは、哲学者のカントという人が言い出したらしい。

 

知性、感情、意志。この三つで人の精神が表せるならば、浄土の法門を領受するのもまたこの三つであろうと思われる。

 

信知 : 槐安国伝

心のぞみぞみと身の毛もいよだち、涙も落つるをのみ信の起ると申すは、僻事にてあるなり。それは歡喜・随喜・悲喜とぞ申すべき。信といふは疑ひに対する心にて、疑ひを除くを、信とは申すべきなり。

 

西方指南抄/中末 - 本願力

一念に無上の信心をえてむ人は、往生の匂ひ薫ぜる名號の衣をいくへともなく重ね着むとおもふて、歡喜のこころに住して、いよいよ念佛すべし。

 

三心料簡および御法語 - WikiArc

余行シツヘケレトモ、セスト思、専修心也。
余行目出ケレトモ身カナハ子ハエセスト思ハ、修セ子トモ雑行心也云々。

 

これらの御法語を案ずるに、どうも知性に於ける信受が根本であるように思われる。しかし疑いとは知性の働きではなかろうか。そうすると信とは知性が麻痺することなのだろうか。

 

否、そうではない。知性の働きはそのままで疑いがなくなるのである。疑うことが知性の働きならば、疑わないことも知性の働きなのである。疑わないというよりはむしろ疑えないのである。知性の働きであるからである。

 

そうすると、この疑から信へと知性の働きを転換させるものがあるのである。所謂、決定である。ここら辺の消息を、恐らくは、機法一体とも他力回向ともいうのであろうと思われる。

 

如来の施し給うところであり、法蔵菩薩の修行が現れるところでもある。

南無阿弥陀

事象と解釈

言葉の使い方が間違っているかもしれないが、まあいつものことでもあり、思いついたので書く。

 

死というのは事象ではなく解釈である。事象としての命終を、一般的に死と解釈しているだけである。

 

浄土門では、その命終を死と解釈するのではなく、往生と解釈する。これが安心決定である。

 

よって、必ず往生する。生あるものは必ず死ぬからである。