理性と知性とについて
理性とは知性とは何か。改めて調べてみるとよく分からない。そこで簡単に定義付けてみる。即ち、理性とは善悪を判断する能力であり、また知性とは損得を勘定する能力である、と。
歎異抄に曰く、
善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。
つまり、浄土門にて言うところの煩悩具足の凡夫、罪悪生死の凡夫とは、理性なき我々のことである。
我々は善悪を知性、つまり損得勘定で判断している。善悪で判断しているのではない。理性がないからである。そして知性は理性に及ばないために間違うのである。
思うに、宗教における信仰もしくは安心は、理性の働きを代用するものではなかろうか。もし人が、悪とされるものをなさないとするなら、その人は理性のある稀な人か、何がしかの信仰を持つ人であろう。
何が善で何が悪か、突き詰めて考えるとよく分からないが、なんとなく善である方へと心が向いて行くのは、理性ではなく、信仰なり安心なりの働きではないかと思うのである。
ただし、小生がそうであるかどうかは分からない。
南無阿弥陀佛
三尊
ということで、なるほどそうなのかと思うものでもあるのだが、また例によって何となく思いついたのだ。つまり、観世音菩薩は縁起の法に、大勢至菩薩は縁滅の法に配当されているのではないだろうか、と。
根拠はほとんどない。あえて言うなら、現世利益の印象と真宗の和讃からの印象とに拠っているのだろう。
自分で思いついておいて自賛してしまうが、これは当たっているような気がしてならない。釈尊の開悟七日の三つの偈に当てはまっていると思うのだ。
(日没時の詩 )「実にダンマ(注)が、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」
(真夜中の詩) 「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」
(夜明けの詩)「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」
(『ウダーナ』より、玉城康四郎訳)
インド文明の特性なのか、大乗佛教の特性なのかは分からないが、おそらくはそれに従って、それぞれに菩薩様が配当されているのではないだろうか。
南無観世音菩薩
南無大勢至菩薩
南無阿弥陀佛
信知
選擇本願念佛集 第八章段に曰く、
深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。
深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知し、今弥陀の本弘誓願、名号を称すこと、下、十声一声等に至るに及ぶまで、定んで往生を得と信知して、乃至一念も疑心有ること無し。
漢文だと以下の如し。
言「深心」者,即「深信之心」也。亦有二種:一者決定深信:自身現是罪惡生死凡夫,曠劫已來常沒常流轉,無有出離之緣;二者決定深信:彼阿彌陀佛,四十八願,攝受眾生,無疑無慮,乘彼願力,定得往生。
深心,即是真實信心。信知自身是具足煩惱凡夫,善根薄少,流轉三界,不出火宅;今信知彌陀本弘誓願,及稱名號,下至十聲一聲等,定得往生,乃至一念無有疑心,
これらは、浄土門の偉大なる祖師、唐の善導の著作、観経疏と往生礼賛とからの引用である。この二つの間に思想の浅深があるのかどうかはわからないが、「決定深信」と「信知」とが同じ事態を指していることは間違いなかろうと思われる。そこで、「深信」と「信」とが対応しているであろうから、「決定」と「知」とが対応しているのであろうと思われる。つまり、決定するということは知られることなのである。知られたということは決定したということなのである。
勅修御伝に曰く、
念佛申すものは必ず往生すと知るばかりなり。
ただ念佛申すもの往生はするとぞ、源空は知りたる。
小生思うに、信知とは、未だ知らざるを信ずるのではなく、すでに知られたことを信ずるのである。それは何かといえば、不出火宅と定得往生とが自身に知られるのである。そしてそれは決定である。
南無阿弥陀佛
知情意
知情意というのは、哲学者のカントという人が言い出したらしい。
知性、感情、意志。この三つで人の精神が表せるならば、浄土の法門を領受するのもまたこの三つであろうと思われる。
心のぞみぞみと身の毛もいよだち、涙も落つるをのみ信の起ると申すは、僻事にてあるなり。それは歡喜・随喜・悲喜とぞ申すべき。信といふは疑ひに対する心にて、疑ひを除くを、信とは申すべきなり。
一念に無上の信心をえてむ人は、往生の匂ひ薫ぜる名號の衣をいくへともなく重ね着むとおもふて、歡喜のこころに住して、いよいよ念佛すべし。
余行シツヘケレトモ、セスト思、専修心也。
余行目出ケレトモ身カナハ子ハエセスト思ハ、修セ子トモ雑行心也云々。
これらの御法語を案ずるに、どうも知性に於ける信受が根本であるように思われる。しかし疑いとは知性の働きではなかろうか。そうすると信とは知性が麻痺することなのだろうか。
否、そうではない。知性の働きはそのままで疑いがなくなるのである。疑うことが知性の働きならば、疑わないことも知性の働きなのである。疑わないというよりはむしろ疑えないのである。知性の働きであるからである。
そうすると、この疑から信へと知性の働きを転換させるものがあるのである。所謂、決定である。ここら辺の消息を、恐らくは、機法一体とも他力回向ともいうのであろうと思われる。
如来の施し給うところであり、法蔵菩薩の修行が現れるところでもある。
南無阿弥陀佛