変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

一念多念

仏説無量寿経 - Wikisource

諸有衆生 聞其名號 信心歡喜 乃至一念 至心回向 願生彼國 即得往生 住不退轉 唯除五逆 誹謗正法
其有得聞 彼佛名號 歡喜踊躍 乃至一念 當知此人 爲得大利 則是具足 無上功德

選択集 読んでみよう選択集:浄土宗(善導大師の御釈 往生礼讃から)

もし衆生有って、阿弥陀仏を称念すること、もしは七日および一日、下十声乃至一声一念等に至るまで必ず往生を得。

いとー日記:元祖大師御法語前編10「一紙小消息」その1 - livedoor Blog(ブログ)

行少なしとても、疑うべからず。一念十念に、足りぬべし。

いとー日記:元祖大師御法語前編15「信行双修」その1 - livedoor Blog(ブログ)

信をば一念に生まると信じ、行をば一形にはげむべし。

広島の家族葬:広島メモリアル スタッフブログ 「念ごとに往生の業となるなり」 法然上人のことば

一念を不定に思ふは 念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり 其故は 阿彌陀佛は 一念に一度の往生をあておき給へる願なれば 念ごとに往生の業となるなり

百四十五箇条問答ノート

一。念仏の百万遍百度申してかならず往生すと申て候に、いのちみじかくてはいかがし候べき。
答。これもひが事に候。百度申てもし候、十念申てもし候、又一念にてもし候。

西方指南抄/中末 - 本願力回向

仏の御約束、一声もわが名をとなえむものをむかえむといふ御ちかひにてあれば、最初の一念こそ、願には乗ずることにてあるべけれ。

西方指南抄/中末 - 本願力回向

一念に無上の信心をえてむ人は、往生の匂の薫ぜる名号の衣を、いくえともなくかさねきむとおもふて、歓喜のこころに住して、いよいよ念仏すべし

一言芳談 一一四: Blog鬼火~日々の迷走(元祖の御弟子 小藏入道の言葉から)

往生は最初の一念に決定せり

 

一念にて往生すると確かに言われてある。一念多念の争いも宜なるかなである。しかし、一念を主張するあまりに多念を否定するのは、娑婆の論理に縛られているからである。逆もまた然り。娑婆の論理、もしくは生死の論理、もしくは世俗の論理。

 

生死を出でんとするときには、生死の論理は通用しない。出離生死の論理、もしくは浄土の論理、もしくは宗教の論理、とも言うべきものが必要になるのである。浄土門が他力の法門と言われ、自力無効と言われるのはそのためである。したがって、一念も是、多念も是、となる。

 

ところで、こうやって御法語を並べてみて気づいたのだが、元祖には一念を信心として捉える思想がないように思う。恐らく、元祖によれば、一念は行であって、信心ではない。無量寿経にては信として説かれてあるようにも見えるが、元祖上人はこれを行として解釈されているようである。

 

これは元祖の時代的思想史的世代的な事情があるのだろうと思う。浄土宗独立以前は、称名念仏が行として確立していない。元祖はこれを確立させる必要があった。浄土宗独立以後は、称名念仏が行として既に確立している。そうすると、さてこれをどう受け取るかが問題となるのだろうと思う。そこで注目されてきたのが、信心であり、名号であるかな、と思う。

滅後の邪義

一枚起請文 - Wikipedia

証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。

 

元祖御在世の頃から、一念多念の争いというものがあった。一念にて往生すると主張する、あるいは、多念にて往生すると主張することが邪義なのではない。あるいは一念を否定し、あるいは多念を否定することが邪義なのである。

 

例えば、機法一体、他力廻向、等々、これらは思想の発展であって邪義ではない。一枚起請文に反するわけではないからである。還愚の法門と雖も、思想はあり、あるからにはそれは発展することもある。それらは邪義とはまた別のものである。

 

12月19日「ピンチの時に・・・、」:浄土宗

智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、邪見者は邪見ながら申す。一切のひとみなかくのごとし。

 

しかしこの御法語である。これは邪義を主張するような者でも、念佛申して往生すると読める。とするなら、ましてや同じ浄土門ならば、宗派の違いは違いとして、念佛する者は往生すると、なってしまう。鎮西は鎮西ながら、西山は西山ながら、真宗は真宗ながら、念佛して助けられるのである。そしてそれは正しいと思うのである。

 

たとえこのブログで邪義を書き散らかしていたとしても、念佛申す者、往生するのである。

念仏を信ぜん人

一枚起請文 - Wikipedia

念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。

浄土宗の時間 「法然さまのみ教え」 第三週 6月17日 「信ぜむ」と「信ぜぬ」

「む」の後に人とかモノとか名詞が続く場合は「婉曲表現」で現代語なら断定的に表現される内容を柔らげてする表現、たとえば「お念仏を信じる人」を「お念仏を信じるような人」というニュアンスなのです。

 

では、何故に婉曲表現なのだろうか。一つには、念佛の信が、こちらから信じるようなものではないからではなかろうか。二つには、これは流通分であって、未来の念佛者に向けてのお言葉だからではないだろうか。

 

またここに一つの不審があって、一代の法をよくよく学してしまったら、一文不知の愚鈍の身にはなれないと思うのだが。おそらく、ここには機の深信が絡んでいると思われる。

 

御法語 第二十一巻 上人つねに仰られける御詞

我はこれ烏帽子もきざる男なり。十悪の法然房愚痴の法然房が、念佛して往生せんと云なり。

 

所謂機の深信を具体的に述べられたところであろうかと思う。また戒めでもあり、お奨めでもある。

 

一文不知の愚鈍の身とは、字も読めない愚か者ということであるから、教育を受けた者にはそのままでは当て嵌まらない。ただ、念佛申すにつきては、その知識や知性を用いないということである。

 

尼入道の無智のともがらというのは、小生の如き素人佛教徒をいう。

 

智者のふるまいというのは、このブログに書いているようなことをいうのだろう。小生としては佛法讃歎のつもりなのではあるが。

 

あるいはまた、悟りの智慧を得た者のふるまいをするなということだろうか。この法門においても、求道のうちには、得られるものがあったりするのではあるが、安心においては、それらは捨てものである。何故なら、念佛者にとっては南無阿弥陀佛が安心だからである。往生極楽、出離生死においては、こちらから何ものかを加えることはないのである。

 

よって、ただ一向に念佛すべし、と言われるのである。

奥ふかき事

一枚起請文 - Wikipedia

この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。

松庵

もし、このほかに奥深いことを考えているとしたならば、私は、阿弥陀さまとお釈迦さまのお慈悲からはずれ、私をお救いくださるという本願からもれることでしょう。

よく分かる一枚起請文

私が今まで申し上げたお念仏の教え以外に、何か深い教えを隠しているとするならば、阿弥陀さまやお釈迦さまの慈悲のみ心に背くことになり、私自身が阿弥陀さまの本願の救いから漏れてしまうでしょう。

「一枚起請文」のこころ

もしも私が「これ以外にお念仏の教えには奥深いことがあるのだ」などとわが心に秘めていたならば、 釈尊阿弥陀仏が私たち衆生を救わんとなされた慈悲のみ心に背き、 私自身が阿弥陀仏のお誓いになられた本願のお救いから漏れ出てしまうことでしょう。

4月18日「教師の握り拳」:浄土宗

お釈迦さまは、お亡くなりになる前、お弟子さんたちに「私の教えはすべて教え切った。私には教師の握り拳などはない」という意味のことをおっしゃられたそうです。

お釈迦様の教え

わたしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。まったき人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。

歎異抄 第二条

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

 

元祖は智慧深遠と称され、三昧發得の高僧であり、大勢至菩薩の化現ともいわれる祖師であるからして、奥深き事などいくらでもご存知だったはずである。しかし、浄土の法門については、これ以上の事などない、と言われているわけである。つまり、決定してただ南無阿弥陀佛と申すことこそが奥深き事なのである。何故なら、それは如来様のお仕事だからである。

 

無量寿経に曰く

如來の智慧海は深広にして涯底なし。二乘の測るところに非ず、ただ佛のみ独り明了なり。

信者めぐり 〜讃岐 庄松同行の物語〜から

曰く、「それは佛の云うことぢゃ、俺は知らぬ」

 

 

「と申して」と「にて」

一枚起請文 - Wikipedia

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。
ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。

 

「南無阿弥陀佛と申して」とあるのは、相続において信を説くのである。これを称名安心と名付ける。「南無阿弥陀佛にて」とあるのは、決定において信を説くのである。これを名号安心と名付ける。

 

称名安心と名付けるのは、称名相続が、行-信-行と、三層もしくは内包もしくは循環する構造になっており、そのままで安心を成り立たせるからである。そして名号安心と名付けるのは、南無阿弥陀佛の名号が、決定した信を、内包もしくは付帯しており、そのままで安心を成り立たせるからである。

 

愚案によれば、称名安心とは自帰依であり、名号安心とは法帰依である。元祖大師は、ここでも釈尊をなぞっておられるわけである。

同一念佛

一枚起請文 - WikiArc

学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。
ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。

 

愚見によれば、「念の心を悟りて」とは、宗教経験を含んでいる。また「決定して」とは、宗教経験としての決定である。ということは、前者は、宗教経験を得て申す念佛ではないということであり、後者は、宗教経験を得ているということである。

 

これはどういうことかと考えてみるに、念佛往生においては、宗教経験は必要ではないが、あるということではなかろうか。

 

信前信後という言い方は好きではないが、あえて言うなら、念佛に、信前信後の区別はないということである。区別はないが、信ということはあるというのである。

 

決定する前の念佛と、決定した後の念佛とは同じである。何故なら、機の側から何かを加えるということはないからである。

決定(けつじょう)

一枚起請文 - WikiArc

ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。

第 十 三 巻 - いとーの部屋 - Seesaa Wiki(ウィキ)

但妄念のきをひおこり侍るをば、いかがし候べきと。上人の給はく、是煩悩の所為なれば、凡夫の力及べからず。たゞ本願を頼て名号を唱ふれば、佛の願力に乗じて往生をうと知れりと。法印信心決定し、疑念たちまちにとけぬ。往生さらにうたがひなしとて、退出し給けり。

第 十 九 巻 - いとーの部屋 - Seesaa Wiki(ウィキ)

これを見て良匠のはかりごとなをかくのごとし。いかにいはんや彌陀如来の善巧方便をやとおもひしおりに、疑網たち所にたえて信心決定せり。

大阪城-瑞穂の風

かなはぬ物ゆへに、とあらんかからんと思て、決定心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。

4月12日「ゴールの向こうに」:浄土宗

往生を期せん人は、決定の信をとりてあいはげむべきなり

「深信」について勝手に現代語訳 - 妄念の凡夫

ただ心の善悪をもかえりみず、罪のかろきおもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもいて、口に南無阿弥陀佛ととなえては、声につきて決定往生の思(おもい)をなすべし。その決定心によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。 

三心料簡および御法語 - WikiArc

一弥陀本願決定也、二釈迦所説決定也、三諸仏証誠決定也、四善導教釈決定也、五我等信心決定、以此義故往生決定也云々。

選択集 読んでみよう選択集:浄土宗

正定の業とは、すなわちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。

 

昔、元祖には称名相続のみあって、信心決定とか安心決定とかは言われてはいないものと思っていた。しかし、考えてみれば、すでに善導大師の御釈に、「決定深信」とあるので、元祖にもないわけがない。ましてや御自身は御廻心を経験しておられる。

 

そこでこの頃気づいたのが、一枚起請文における「決定」とは、安心決定のことではないかというものである。所謂宗教経験としての決定である。

 

宗教経験としての決定は、元祖の教えにもあるのである。しかし、その表出の頻度は少ない。何故か。それは、念佛者の決定は、阿弥陀佛に還っていくからである。信の内容たる三心のみならず、称名相続である四修までもが決定にこもっているというのは、そのためである。

 

行者の決定は、弥陀本願の決定である。弥陀に還っていくものを、いつまでも機の側で云々するわけにはいかないのである。