変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

其有衆生と諸有衆生

大無量寿経に曰く、

佛告阿難 其有衆生 生彼國者 皆悉住於正定之聚 所以者何 彼佛國中 無諸邪聚 及不定聚 十方恆沙 諸佛如來 皆共讚歎 無量壽佛 威神功德 不可思議 諸有衆生 聞其名號 信心歡喜 乃至一念 至心回向 願生彼國 即得往生 住不退轉 唯除五逆 誹謗正法

 

色々と検索して調べてみると、正定之聚とは正定聚で不退転と同じと解釈されているらしい。しかし正定聚の本来の意味は集まりを指すとある。そして諸有衆生の諸有には「あらゆる」と訓が施してある。つまり、諸有衆生がすべてを表すのに対し、其有衆生は部分または限定された衆生を表していると思われる。そこで、

 

其有衆生 生彼国者〜住正定聚

諸有衆生 聞其名号〜住不退転

 

というふうに、単純に考えてみると、住正定聚は淨土におけることであって、住不退転は娑婆でのことであると思う。両方が淨土もしくは娑婆でのことだとすると、其有衆生と諸有衆生との違いがなくなると思うのである。経文は区別してあるのであるから、当面の意味としては区別された意味があるはずである。

 

そして諸有衆生が娑婆のことならば、即得往生は往生するということではなく、往生を決定するということだと思われる。即得ということであって、即往生ではない。

 

また諸有衆生とは、単に全てという意味だけではなく、諸々の個個の衆生という意味だと思われる。また淨土においては諸々の邪聚や不定聚が無いとならば、娑婆においてはあるということである。

 

つまり、念佛者は淨土においては成佛が定まった確かな人々と共にあり、娑婆においては間違った人々やあやふやな人々の中で一人往生を決定して不退転に住する。ということであろうと思われる。

 

生彼国者は其有衆生の条件であろうけれども、聞其名号は諸有衆生の条件ではない。あらゆる衆生であるからである。そうすると信心歓喜も乃至一念もまた条件ではない。条件ではないから、それは衆生が起こさなければならない心ではない。それは念佛の行者に現れるものだと思われる。

 

乃至一念は信心の一念で決定の一念だと思うが、聞其名号とあるからにはそれは称名の一念でもあると思う。名号を聞いて現れる一念は称名にならざるを得ないはずで、つまり念佛である。

 

その念佛の一念に至心回向願生彼国は含まれると思う。そもそも回向とか、菩薩様はともかく、凡夫にできることなのだろうか。できたとしても、ここに至心とあるから、これは衆生の心ではないのではないかと思われる。ちなみに真宗の解釈ではこの回向は如来様が起点となるが衆生を起点として考えても問題はないと思う。選擇集には善導大師の六字釈を引いて不回向とありそれからしても、この一念に至心回向は含まれると思われる。

 

つまるところ、信心歓喜も至心回向も乃至一念に集約すると思うのである。諸有衆生が乃至一念する、そこが即得往生するところで住不退転のところである。往生を即得して不退転に住する。つまり、往生一定ということである。これは、命終時の往生を平生に決定してその往生を遂げるまで不退であるという意味である、と思う。

 

これは要するに、念佛するもの往生す、ということである。

元祖様曰く、

念佛申すものは必ず往生すと知るばかりなり

ただ平に佛語を信じて念佛すれば往生するなり

ただ念佛申すもの往生はするとぞ、源空は知りたる

 

これは阿弥陀佛の威神功徳不可思議なることである。

 

 

 

南無阿弥陀