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変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

念仏を信ぜん人

一枚起請文 - Wikipedia

念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。

浄土宗の時間 「法然さまのみ教え」 第三週 6月17日 「信ぜむ」と「信ぜぬ」

「む」の後に人とかモノとか名詞が続く場合は「婉曲表現」で現代語なら断定的に表現される内容を柔らげてする表現、たとえば「お念仏を信じる人」を「お念仏を信じるような人」というニュアンスなのです。

 

では、何故に婉曲表現なのだろうか。一つには、念佛の信が、こちらから信じるようなものではないからではなかろうか。二つには、これは流通分であって、未来の念佛者に向けてのお言葉だからではないだろうか。

 

またここに一つの不審があって、一代の法をよくよく学してしまったら、一文不知の愚鈍の身にはなれないと思うのだが。おそらく、ここには機の深信が絡んでいると思われる。

 

御法語 第二十一巻 上人つねに仰られける御詞

我はこれ烏帽子もきざる男なり。十悪の法然房愚痴の法然房が、念佛して往生せんと云なり。

 

所謂機の深信を具体的に述べられたところであろうかと思う。また戒めでもあり、お奨めでもある。

 

一文不知の愚鈍の身とは、字も読めない愚か者ということであるから、教育を受けた者にはそのままでは当て嵌まらない。ただ、念佛申すにつきては、その知識や知性を用いないということである。

 

尼入道の無智のともがらというのは、小生の如き素人佛教徒をいう。

 

智者のふるまいというのは、このブログに書いているようなことをいうのだろう。小生としては佛法讃歎のつもりなのではあるが。

 

あるいはまた、悟りの智慧を得た者のふるまいをするなということだろうか。この法門においても、求道のうちには、得られるものがあったりするのではあるが、安心においては、それらは捨てものである。何故なら、念佛者にとっては南無阿弥陀佛が安心だからである。往生極楽、出離生死においては、こちらから何ものかを加えることはないのである。

 

よって、ただ一向に念佛すべし、と言われるのである。