十二縁起と二種深信
十二縁起とは以下の如し。
原始仏教 仏陀が教えた原初の教え(2/4) - 仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog
無明 - 行 - 識 - 名色 - 六処 - 触 - 受 - 愛 - 取 - 有 - 生 - 老死
無明によりて行あり、行によりて(略)生あり、生によりて老死あり、というのが流転門。
無明の滅によりて行滅す、行の滅によりて(略)生滅す、生の滅によりて老死滅す、というのが還滅門。
二種深信とは以下の如し。
一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。
二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。
さて、そもそものきっかけは、ネット検索をかけていた時に見つけたとあるサイトの記事である。そこで紹介されていた本が興味深かったので早速購入して、読んでみた。その本の中で、十二縁起が、流転門と還滅門として書かれてあった。つまり無明によって生死がある、というのが流転門、無明の滅によって生死の滅がある、というのが還滅門である。十二縁起をそのように表現するのを初めて知ったのだが、その流転の文字がある連想をもたらした。それは浄土門の二種深信の内の機の深信に於ける、常没常流転である。無学ゆえに今までそういう話は聞いたことがなかったが、まあ聞いたことがないし誰も言っていないようなのでここに書いているわけだが、機の深信は、罪悪という言葉が入ってはいるけれども、常没常流転とあるからには、無明によりて生死があるということには違いなかろうと思われる。してみると法の深信は、定得往生というのであるから、これは生死の滅であるに違いない。そうすると、十二縁起というのは二種深信である、あるいは二種深信とは十二縁起であると言える。
南無阿弥陀佛