変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

願成就文は重複している

大無量寿経の第十八願、第十九願、第二十願に曰く、

設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆 誹謗正法

設我得佛 十方衆生菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正覺

設我得佛 十方衆生 聞我名號 係念我國 殖諸德本 至心回向 欲生我國 不果遂者 不取正覺

またその成就文に曰く、

佛告阿難 (略) 諸有衆生 聞其名號 信心歡喜 乃至一念 至心回向 願生彼國 即得往生 住不退轉 唯除五逆 誹謗正法

佛告阿難 十方世界 諸天人民 其有至心 願生彼國 凡有三輩 其上輩者 捨家棄欲 而作沙門 發菩提心 一向專念 無量壽佛 修諸功德 願生彼國 此等衆生 臨壽終時 無量壽佛 與諸大衆 現其人前 即隨彼佛 往生其國 便於七寶華中 自然化生 住不退轉 智慧勇猛 神通自在 是故阿難 其有衆生 欲於今世 見無量壽佛 應發無上菩提之心 修行功德 願生彼國

佛語阿難 其中輩者 十方世界 諸天人民 其有至心 願生彼國 雖不能行作沙門 大修功德 當發無上菩提之心 一向專念 無量壽佛 多少修善 奉持齋戒 起立塔像 飯食沙門 懸繒然燈 散華燒香 以此回向 願生彼國 其人臨終 無量壽佛 化現其身 光明相好 具如眞佛 與諸大衆 現其人前 即隨化佛 往生其國 住不退轉 功德智慧 次如上輩者也

佛告阿難 其下輩者 十方世界 諸天人民 其有至心 欲生彼國 假使不能 作諸功德 當發無上菩提之心 一向專意 乃至十念 念無量壽佛 願生其國 若聞深法 歡喜信樂 不生疑惑 乃至一念 念於彼佛 以至誠心 願生其國 此人臨終 夢見彼佛 亦得往生 功德智慧 次如中輩者也

 

愚見の基になっているのは、願文と願成就文との間に対応する語句があるというものである。「乃至十念」「發菩提心」「至心回向」などの語句がそれぞれ願文と願成就文とに共通してあるが故に、それは対応しているものと単純に考えるのである。そうしてみると、願文が別個に立ててあるのに対して、願成就文の方は重複していると見るべきだと思うのである。

 

「唯除五逆 誹謗正法」とあるが故に、「諸有衆生〜」の文が第十八願の成就文であることは確かであり、願文の「至心信樂」は成就文の「信心歡喜」と対応しているのであろうけれども、成就文の「聞其名號」「至心回向」が第二十願の「聞我名號」「至心回向」に、下輩の文の「乃至十念」「歡喜信樂」が第十八願の「乃至十念」「至心信樂」に対応しているのも明らかであると思われる。

 

つまり、願成就文は重複しているのである。

 

それで色々と考えてみると、第十八願の「若不生者」の成就文は、「諸有衆生〜」の文の「即得往生」、上輩の文の「往生其國 便於七寶華中 自然化生」、中輩の文の「往生其國」、下輩の文の「亦得往生」であると思われる。

 

次に第十九願の「臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者」の成就文は、それぞれ上輩の文の「臨壽終時 無量壽佛 與諸大衆 現其人前」、中輩の文の「其人臨終 無量壽佛 化現其身 光明相好 具如眞佛 與諸大衆 現其人前」、下輩の文の「此人臨終 夢見彼佛」であると思われる。

 

そして第二十願の「不果遂者」の成就文は、「諸有衆生〜」の文、上輩の文、中輩の文それぞれの「住不退轉」であると思われる。ちなみにこの果というのが佛果の果であるという解釈を思いついたのだが、まあそういうことは無いようではあるが、ともあれ「果遂」が往生の先の成佛を含めてのことを指しているであろうと考えると、「住不退轉」は以前小生が考えていた往生に対する不退転ではなく成佛に対する不退転である。

 

つまりどういうことかというと、往生は「若不生者」とある第十八願の力であり、臨終来迎は「臨壽終時 〜 現其人前者」とある第十九願の力であり、不退転に住するのは「不果遂者」とある第二十願の力である。

 

さらに考えてみると、三輩の文は臨終時のことを述べられているので、「諸有衆生〜」の文は平生のことであろうと思われる。したがって「即得往生 住不退轉」とは平生に往生を決定してそのまま不退転に住するのであると思われる。これは第十八願と第二十願との成就である。

 

もう一つ、「諸有衆生〜」の文にある名号について考えてみると、第二十願の「聞我名號」「至心回向」の成就文が「聞其名號」「至心回向」であるなら、同じく第二十願の「係念我國 殖諸德本」の成就文は「信心歡喜 乃至一念」であろうと思われる。しかし「諸有衆生〜」の文は第十八願の成就文でもあるから第十八願の「至心信樂」の成就文は「聞其名號 信心歡喜」ということになると思われる。そうすると第十八願の「至心信樂」の成就文に第二十願の「聞我名號」の成就文が重なって含まれる、ということになる。

 

つまり、浄土門の信心には「聞其名號」弥陀の名号を聞く、ということが含まれるのである。ということは、その信心は必然的にその名号を称えることになると思われる。成就文の「乃至一念」が信の一念であるとともに称名の一念であることは当然の帰結ではなかろうか。

 

 というようなことが、成就文が重複していると見るところから考えられる訳である。

 

 

 

南無阿弥陀