変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

安心の系譜

選択本願念仏集 ~ 【第一】に曰く

而るに今言う所の浄土宗に、師資相承血脈の譜有りや。答えて曰く、聖道家の血脈のごとく、浄土宗にもまた血脈有り。ただし浄土一宗において、諸家また同じからず。いわゆる廬山の慧遠法師と、慈愍三蔵と、道綽・善導等とこれなり。今且く道綽・善導の一家に依って、師資相承の血脈を論ぜば、これにまた両説有り。

一には菩提流支三蔵・慧寵法師・道場法師・曇鸞法師・大海禅師・法上法師なり。 已上『安楽集』に出づ

二には菩提流支三蔵・曇鸞法師・道綽禅師・善道禅師・懐感法師・小康法師なり。 已上『唐宋両伝』に出づ

 

これを見ると、元祖上人は師資相承の血脈をこれと定められているわけではない。血脈があるとされているだけである。それは禅宗のような面授口訣では無く、言わば思想の系譜である。また真宗七高僧のように龍樹菩薩と世親菩薩が入っていないのは、佛教において宗というものが天竺においてはまだ成立していなかったからであろう。恵心僧都が入っていないのは彼が天台宗の僧だからだろうか。

 

選択本願念仏集 ~ 【第十六】に曰く

偏に善導一師に依るなり。

大唐相い伝えて云く、「善導はこれ弥陀の化身なり」と。

善導の『観経の疏』は、これ西方の指南、行者の目足なり。

ここにおいて貧道、昔この典を披閲してほぼ素意を識り、立ちどころに余行を舎てて、ここに念仏に帰す。

 

おそらく、思想の系譜は既にあるが、安心はまたそれとは別、ということだろう。観経疏の前には佛説の浄土経典がある。この佛説-善導-元祖の流れは安心の系譜と呼んで良いと思う。

 

歎異抄 第二条 に曰く

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。

 

これもまた安心の系譜であり、選擇集と符合すると思うのである。

 

 

南無阿弥陀