変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

佛教における最初の念佛

史上最初の二帰依について。

在家 - Wikipedia

タプッサとバッリカという二人の商人が麦菓子と蜜団子を寄進して帰依し、最初の在家信徒になった。

[mixi]律蔵 「ゴータマ伝1」 悟後の坐禅・梵天勧 - 原始仏典 | mixiコミュニティ

「ここにわたしたちは、先生と教えとに帰依します。先生、わたしたちを優婆塞(うばそく、ウパーサカ、仕える者の意)として受け入れてください。今日よりはじめて命尽きるまで帰依します」と。
 彼らは世間においてはじめて二帰依を唱えた優婆塞であった。  

仏教の実質的始まりはいつか

>パーリー原典・・「ブッダとダンマに帰依します。」

51 ブッダの理念をバラモンが理論化した : ゴータマ・ブッダの人と思想

ここにわれらは尊師と法とに帰依したてまつる。

三帰依文はどの経典からきている句なのですか?? - 帰依文自体... - Yahoo!知恵袋

この無言のままの説法、無言説による教化は、太古より今日に至るまでインドの宗教的実践のもっとも一般的な方法であるそうです。

【3】善来具足戒法の制定と帰依の対象としての サンガ(僧宝)の形成

「法宝」 は 「仏宝」 と 同時に世尊の成道によって成立したと考える と 、 「法宝」の「法」は世尊の「説かれた教え」ではなく、 仏と法は相即しているのであっ て 、 仏の根底にある仏によって悟られた法、 仏を仏ならしめているところの法を意味してい るということになる。

 

「法」は、 「仏のよく説かれた法」としているから、初転法輪などにおいて 説 かれた四諦の法などを指すかとも考えられるが、 「現によく見られ、 時を超越し、来て見 られ 、 導き、 それぞれに知者が了解するもの」とされるから、説かれた教えに内在する真理 のようなものをいうのであろう。

 

「法宝」はゴータマ・ ブッダの悟った理法としての法で、四諦八正道などの実際に説かれた教えに内在する真理として法であり、

 

つまり、タプッサとバッリカという二人の商人は、未だ説かれていない法を認識したということではないのか、ということである。つまり、佛は法であり、法は佛である。

 

帰依 - Wikipedia

南無帰依仏
南無帰依法 

 

Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
(私はブッダ(仏)に帰依いたします)
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ダンマン・サラナン・ガッチャーミ)
(私はダンマ(法)に帰依いたします)

 

要するに、これは念佛であり、初転法輪を佛教の初めだとするならば、佛教以前ということになる。

 

そしてまた考えてみると、これはまだ歴史的事実であり、宗教的事実としては、そしてまた二種深信が縁起の法縁滅の法と対応しているという小見によれば、釈尊の正覚こそが最初の念佛ではないかと思うのである。

 

henntekironn.hatenablog.com 

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南無阿弥陀