往生は得易し
成佛は難しと雖も往生は得易し。
小生曰く、往生は得易しと雖も安心は得難し。
他宗他教にては、信心とも信仰ともいうのであろうこれを、小生は安心と言う。まことに安心は得難し。これは存在の構造からくるものであり、如何ともし難いものである。そもそも、得るものではない。法蔵菩薩が修行し給うところの安心だからである。
法蔵菩薩所修の安心であるから、こちらから持ち出すものは何もない。称名でさえこちらからの持ち出しではない。称名と名号とはそのまま安心であるからである。
この安心には三つの段階があるのではないかと、小生は考えているが、元祖の御意にはそのような区別はないようである。
一言芳談に曰く、
あの阿波介が念佛も、源空が念佛も、またくもて同じ念佛なり。
末燈鈔に曰く、
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。
五十年の求道の後の安心と、昨日今日称え始めた覚束ない念佛の安心とが同じであるとは、正直なところ同じであるとは思い難い。思い難いが、元祖様が同じであると言われるのならば、同じなのだ。
南無阿弥陀佛