三尊
ということで、なるほどそうなのかと思うものでもあるのだが、また例によって何となく思いついたのだ。つまり、観世音菩薩は縁起の法に、大勢至菩薩は縁滅の法に配当されているのではないだろうか、と。
根拠はほとんどない。あえて言うなら、現世利益の印象と真宗の和讃からの印象とに拠っているのだろう。
自分で思いついておいて自賛してしまうが、これは当たっているような気がしてならない。釈尊の開悟七日の三つの偈に当てはまっていると思うのだ。
(日没時の詩 )「実にダンマ(注)が、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」
(真夜中の詩) 「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」
(夜明けの詩)「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」
(『ウダーナ』より、玉城康四郎訳)
インド文明の特性なのか、大乗佛教の特性なのかは分からないが、おそらくはそれに従って、それぞれに菩薩様が配当されているのではないだろうか。
南無観世音菩薩
南無大勢至菩薩
南無阿弥陀佛