知情意
知情意というのは、哲学者のカントという人が言い出したらしい。
知性、感情、意志。この三つで人の精神が表せるならば、浄土の法門を領受するのもまたこの三つであろうと思われる。
心のぞみぞみと身の毛もいよだち、涙も落つるをのみ信の起ると申すは、僻事にてあるなり。それは歡喜・随喜・悲喜とぞ申すべき。信といふは疑ひに対する心にて、疑ひを除くを、信とは申すべきなり。
一念に無上の信心をえてむ人は、往生の匂ひ薫ぜる名號の衣をいくへともなく重ね着むとおもふて、歡喜のこころに住して、いよいよ念佛すべし。
余行シツヘケレトモ、セスト思、専修心也。
余行目出ケレトモ身カナハ子ハエセスト思ハ、修セ子トモ雑行心也云々。
これらの御法語を案ずるに、どうも知性に於ける信受が根本であるように思われる。しかし疑いとは知性の働きではなかろうか。そうすると信とは知性が麻痺することなのだろうか。
否、そうではない。知性の働きはそのままで疑いがなくなるのである。疑うことが知性の働きならば、疑わないことも知性の働きなのである。疑わないというよりはむしろ疑えないのである。知性の働きであるからである。
そうすると、この疑から信へと知性の働きを転換させるものがあるのである。所謂、決定である。ここら辺の消息を、恐らくは、機法一体とも他力回向ともいうのであろうと思われる。
如来の施し給うところであり、法蔵菩薩の修行が現れるところでもある。
南無阿弥陀佛