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変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

無条件の幸福

五濁悪時悪世界に生まれた悪衆生の身を不幸とするなら、浄土門の安心は幸福と呼べるだろう。そして浄土門の安心を幸福と呼ぶのならば、それは無条件の幸福である。特に何かと引っかけてあるわけではない。

 

幸福ということを考えると、世間的には、金銭的な、あるいは健康的な、あるいは夢が叶う的な、そんなものだろうと思う。しかしそれらは皆、条件が付いた幸福である。

 

財産があれば幸福である、社会的地位が高ければ幸福である、配偶者が美人もしくは美男子であれば幸福である、健康で老後の不安もなければ幸福である、好きなことができれば幸福である、等々。

 

そしてまた宗教的に考えたとしても、行ずれば幸福になる、信ずれば幸福になる、善を行えば幸福になる、教団に布施すれば、あるいは奉仕すれば幸福になる、等々、これらは皆、条件が付いた幸福である。浄土門の安心ではない。

 

では、どうすれば浄土門の安心は得られるのだろうか。しかしながらそれは、問いがすでに間違っているのである。無条件だと言っているのに、条件を付けて求めているからである。

  

善人は善人ながら、悪人は悪人ながら

というのは、無条件ということである。

 

求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。

 

浄土門に於いては、求めることは条件ではない。 求めたから得られるのではない。尋ねたから、門を叩いたから得られるのではなく、十劫の昔に法蔵菩薩がすでに成就して下さっているから得られるのである。我々がクリアすべき条件は、すでに法蔵菩薩によってクリアされている。だから無条件なのである。

 

いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし

 

古人は上手いことを言われる。そこで小生は言う、いまだ聞かざるには現れず、称えざるには得ることなし、と。

 

称えることは条件ではない。それそのものが安心だからである。

 

どうすれば得られるかと問うべきではない。得られるか、得られざるかを問うべきである。そしてその答えは、今現在説法の如來様からいただくのである。

 

謙敬聞奉行

 

ただ一向に念佛すべし

 

すべて聖教にあるとおりである。

 

 

追記。表題で検索すると出てくる楽曲やアイドルグループとは何の関係もないので悪しからず。