変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

ドグマ酔い

思想に囚われてしまうことを、昔から教条主義とか原理主義とかいうらしいが、小生はこれを「ドグマ酔い」と名付けてみた。これにかかると、精神が柔軟性を失い、思考が定型化して、短絡した発言を成すようになるようである。月をさす指という言葉があるように、指という思想に囚われてしまい、月という真理が見られなくなってしまうのである。

 

聖教を読み、少しでも理解できるようになると、だいたいこれにかかる。というか、小生がそうであり、このブログを書いているわけである。自分ではよくわからないが、割と気持ちいいらしい。

 

信者めぐり -肥後 原口針水師の法話- より

和上また曰く、「たのむ一念は二番だぞや」と仰せられたので、この同行達は色をなした。

一体岡崎の文五郎同行は理屈家で御定判一点張りの裃同行であるから、針水和上だろうが、勧学だろうが御当流の一番大切のたのむ一念を、二番だなぞと云うは以ての外だ。こんな話は聞かぬがよいとて、宿へ帰った。

翌日また和上が、「染め付いた垢は一度では落ちまいから」とて、常行大悲の御親切より、また態々お出かけ下され、御化導下されたれど彼の同行は終日顔を出さずして、和上がお帰り後にまた来られて、そしてその同行が懐中より御聖教を出し、「針水和上が有り難い、何が有り難いと云うても、これより上の物はない」と云うて、同行達はその翌日は帰国した。

私は後に残った二名の同行と、和上の許へ御礼に伺うて、「この程の御化導に、たのむ一念は第二番だぞやと仰せられるは、どういうことでござりますか」と申し上げると。

和上は勢いするどく、「たのむ一念ばかりか、信心も安心も二番だぞ。ただ如來の仰せだけ、即ちお助けが一番だぞや」

 

思うに、かつてあった一念多念の争いも、ドグマに酔っていたのであろう。 

 

一枚起請文には、

智者のふるまいをせずしてただ一向に念佛すべし

一言芳談には、

念佛宗は、義なきを義とするなり。

とある。これらはドグマに酔う事を戒められた法語である。

 

念佛の法門は、称名が安心であり、名号が安心であり、如来様が安心である。これらは思想以前のことであり、そこにドグマはない。