報佛の因果
まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。
行業果報 不可思議 諸佛世界 亦不可思議。其諸衆生 功徳善力 住行業之地。
行業の果報不可思議ならば、諸佛世界もまた不可思議なり。そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す。
これを小生は「報佛の因果」と名付ける。衆生の因果ではないからである。
そして得られるこの安心を、「法蔵菩薩所修の安心」と名付ける。衆生が修行して作る安心ではないからである。
この安心は、称名に依り、また名号に依る。これを称名安心と名付け、また名号安心と名付ける。これは自帰依自灯明、法帰依法灯明である。
また、称名に依るとは、多念相続であり、名号に依るとは、一念決定である。
また、相続に三あり、決定に六あり。相続に三ありとは、一つには説法を聞いて称える。二つには、何事もなくとも、自然に縁ぜられて称える。三つには、口に称えざれども相続する。ただし、口称を本とする。決定に六ありとは、一つには弥陀本願決定、二つには釈尊所説決定、三つには諸佛証誠決定、四つには善導御釈決定、五つには元祖立宗決定、六つには凡夫信心決定。
これらは皆、報佛の因果である。
以上は無智無学の小生の料簡に過ぎない。元祖以来、諸派の宗義にはそれぞれ歴史の積み重ねがあり、とても愚生の及ぶところではないのだが、むしろそれ故に、自分なりの咀嚼の結果、以上のようなことになった。
よって小生の見解は、鎮西にあらず、西山にあらず、真宗にあらず、ただ小生だけのものである。それは恰も、小生の人生が小生だけのものであるように。
これを、法蔵菩薩所修の安心という。