愚癡に還る
機の深信が縁起の法であるということは、先の記事に書いた。善導大師は、常没常流転の縁起の法に、罪悪や凡夫という要素を加えられたのである。
法然教学の研究 /第二篇/第一章 法然聖人における回心の構造/第七節 三学無分の自覚 - 本願力回向
一者、決定深信、自身現是、罪悪生死凡夫、曠劫已来、常没常流転、無有出離之縁。
一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
そして我が元祖和順大師は、機の深信に、愚、という要素を加えられたのではないかと思うのである。
弥陀如来の本願の名号は、木こり、草かり、菜つみ、水くむたぐいごときのものの、内下ともにかけて、一文不通なるが、となうれば必ずうまると信じて、真実にねがいて常に念佛申すを最上の機とす。もし智恵をもちて生死をはなるべくば、源空いかでかかの聖道門をすてて、この浄土門に趣くべきや。聖道門の修行は、智恵をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかえりて極楽にうまるとしるべしとぞ仰せられける。
ご消息披露から −愚者となりて往生す− - 木賣慈教の「和顔愛語」
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。
機の深信とは別と言われればそれまでではあり、凡夫の中にそれは入っているとするならまたそれまでではある。
善導大師も「我等愚癡身」と言われているし、もうすでに入っているのかもしれない。
しかし、小生は今までわからなかった。自身を愚、と認識することは、安心の中にあったのである。