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変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

往生について

歎異抄 第15条 - WikiArc

浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ、とこそ、故聖人の仰せには候ひしか。

 

証空の浄土教研究 - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科

証空は證得往生から即便往生と当得往生との二種往生説を立てる。すなわち平生の往生を即便往生と名付け、臨終時の来迎を伴う往生を当得往生と呼び、一人の念仏者の上にこれら二つの往生を説くのである。

親鸞聖人の往生観 | 高明寺

親鸞聖人の往生観は、『教行信証』や晩年の『かな聖教』などにおいて、厳密な論として立てられている場合には、ほぼ明確に「現生往生」説といえる。

しかし一方で、『御消息集』などのお手紙類や、御和讃には、死後の往生を認めておられるような表現も見受けられる。

【親鸞にわける現世往生の思想】

即得往生とは、信心をうればすなわち往生するということである。

安心論題/即得往生 - WikiArc

現生で得るのは因決定であって、果として報土に往生したということではありません。報土往生の果を得べき因は平生聞信の一念に決定する。平生に因が決定しているから命終時にはまちがいなく往生の果が得られるということであります。

 

なんだかややこしいので小生なりにまとめてみると、命終時を往生というが、平生に信心を得た時をも往生という、という解釈が浄土門内にある、ということか。しかし、元祖は命終の時を往生と言われており、

往還分斉 - WikiArc

往生と言ふは、草庵に目を瞑ぐの間、便ちこれ蓮台に跌を結ぶの程、即ち弥陀仏の後に従ひ、菩薩衆の中に在り、一念の頃に西方極楽世界に生ずることを得。

また歎異抄も同じである。

歎異抄 第9条 - WikiArc

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。

 

愚見としては、元祖大師の仰せの通り、此土命終彼土化生が往生であって、信心決定を以って往生とすることは、気持ちはわからないでもないが、違うと思う。

 

また、経文に「即得往生」とあるのは、「命終時に往生すること」を、即時に今、決定するのであって、「即往生」ということではない、と思うのである。故に善導大師の御釈には、「定得往生」と言われてあるのだと思う。

 

そもそも、往生という基本的な用語に二つの意味をもたせてそれを曖昧なままにしておくものだろうか、という疑問もある。西山上人ははっきりさせておられるようだが、真宗の方はちと曖昧ではなかろうか。それとも、歎異抄の著者が聞き損ねたのだろうか。そうは思わないが。

 

念佛者の中には、例えば真宗の妙好人などは、平生に往生しておられるように見受けられるが、大勢至菩薩である元祖和順大師法然源空上人でさえ、平生に往生しているとは言われていない。命終時のこととして語られている。

 

浄土宗の時間「法然さまのみ教え」

われもと極楽にありし身なれば、さだめてかへりゆくべし

 

これは極楽から来た身ではあっても、未だ娑婆にあり、命終時に往生するということである。恐らく、これらのことは、安心の謂わば構造の問題であって、字義の問題ではないのだと思う。