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変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

彼らは教えを聞きに来たのではない

さて、最も不審のある第二条である。

 

歎異抄 第二条 - WikiArc(全文はリンク先を参照)

おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

 

身命をかへりみずして」とある。関東に於いて親鸞聖人の教えを受けた人々が、老骨に鞭打って、訪ねて来られたのである。若い人々であれば、この言葉はないであろう。

 

往生極楽のみち」とは、二つしかない。諸行往生と念佛往生とである。そして諸行を捨てて念佛を取るのが浄土門の本意である。

 

訪ねて来られた人々は、初めてこの法門を聞きに来た人々ではない。すでに親鸞聖人から念佛往生の教えを聞いて来られたはずの人々である。次に来る「しかるに」の言葉には、強い気持ちが篭っているように思う。

 

あなた方は、すでに浄土門の教えを知っているはずではないかと。それなのになぜ惑わされるのか。それはあなた方が、この親鸞を何か上等なもののように思っているからではないのか。それは「おほきなるあやまり」である。

 

念佛の他の往生のみちなど知らないし、またそれについての法文なども知らないのである。

 

「もししからば」とは仮定を述べる言葉なので、その仮定とは直前にある、「おほきなるあやまり」つまり「念佛よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をも知りたるらん」ということ、またそういう上等な人間ならば、という意味だと思う。

 

もし自分がそういう上等な人間ならば、南都北嶺にも多くおられる秀れた学僧の人々に、往生の要をよくよく聞いたはずである。

 

しかし、親鸞聖人が聞かれたのは、元祖法然上人の仰せであった。

 

以上、通常の現代語訳とは違う見解を述べてみた。小生にはこの方がすっきりと納得できる。通説では、御門弟の人々の問いが、諸行往生を問うたことになっておかしいのではないかと思うのである。この人々は親鸞聖人口伝の直弟子方だと思うので、その信心は確かであろうと思われる。彼らはむしろ、師である親鸞聖人の信心を問いに来たのではなかったか、と思うのである。