信心と信仰
信心と信仰とについて。検索をかけてみると、色々と難しいもののようである。
ここでは、小生が思うところを述べてみる。
信心とは、浄土門に於いては二種深信である。一つには、自己は常没常流転の生死する凡夫であると決定して信ずる。二つにはその自己が阿弥陀様の本願力によって生死を解脱すると決定して信ずる。この信心を決定して、初めて、我々は助けられることを知るわけである。
信仰とは、例えば、元祖和順大師法然上人が大勢至菩薩であると思うようなことである。特に根拠はなく、別にこれを信じなくても弥陀の救いに違いはない。極楽が西にあるとかいうのも信仰であろうと思う。二種深信の中にそういうことはないからである。
さらに安心について。
後篇 第8 安心起行(あんじんきぎょう) #jodoshu|法然上人御法語のブログ
大体のところ、信心が安心なのだが、二種深信を含む三心を安心というもののようである。小生はこれらに加えて、生死の苦悩の消滅をあげたい。その内心の安らぎまでを含めて、安心であると。
そもそも浄土門の信心はおおよそ認識であって、それに伴う周辺事態もしくはプラスアルファは含んでいないのではないかと思うのである。しかし周辺事態もしくはプラスアルファを伴うものであるがゆえに、安心と名付けられているのではないかと、思うのである。