先師口伝之真信
歎異先師口伝之真信
先師の口伝の真信に異なることを歎き
これは単に親鸞聖人からの口伝の信心という意味ではなく、親鸞聖人の時点で既に口伝の信心であると思う。つまり、親鸞聖人から伝えられた著者の信心ではなく、親鸞聖人に伝えられた親鸞聖人の信心、という意味であろう。では親鸞聖人はそもそも誰から口伝を受けたのか。それは、大勢至菩薩元祖法然上人の他に誰人がいるであろうか、いやない。
というようなことを考えていたら、
増谷文雄という先生の『歎異抄』によりますと「一応なる程唯円にとって、亡くなられた先師、即ち親鸞の口伝えの信ということであるが、親鸞聖人にとってはその師法然上人のいわゆる先師口伝の真信である。つまり、ただ親鸞聖人が伝えられたということでなしに、法然上人から親鸞聖人に口伝えされ、更に親鸞聖人から唯円に伝えられた真信なのだ」という意味のことが出ております。
とある。
増谷先生の本は若い頃に読んだ覚えがある。しかし、「故親鸞聖人御物語之趣」と同じ序の中にあるので、この「先師」は、法然上人を示さないのではないかと考えていたところ、気になって先師の意味を調べてみると、
とあり、これなら元祖を示していたとしてもおかしくはない。
あらあら調べてみると、真宗の聖教の中で、「先師」の用例はこの歎異抄の二件だけであるようである。
歎異抄(序と第十二条)
歎異先師口伝之真信
つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。
まず、後者の文脈から、元祖のみを指すことはあり得ないだろう。では親鸞聖人のみを指すのだろうか。どうも小生には、表現を変えて区別してあるように思えるのである。この第十二条、二回も証文を引いてある。これが元祖がらみである。そして故聖人の言葉に続く。つまり、「先師」とあるときには、元祖と親鸞聖人とを二つながら指しているのではないかと、思うわけである。
ということで、先師口伝の真信とは、元祖から親鸞聖人への口伝の信心と、親鸞聖人から歎異抄著者への口伝の信心という、二重の意味があると思うのである。
ちなみに、上のサイトにある、
しかしながらそれを更に遡って考えるならば、法然という人の真信もまた、いわば先師口伝の真信であったわけです。歴史的に、あるいは事実として法然上人の書かれた『選択集』その他の著書にありますように、この法然をして本当に法然たらしめたのは善導大師というお人でございます。この人は今から千五百年程前の唐の時代の浄土門の高僧でした。その人から源信という人を経て口伝されたものである。それが先師口伝となるわけです。
というこれはおかしいと思う。文字で伝わるものは口伝とは言わない。したがってこの場合の口伝とは、親鸞聖人と歎異抄の著者のみであって、法然上人の信心や歎異抄を読んでいる者の信心は、口伝とは言わないのである。