変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

滅後の邪義

一枚起請文 - Wikipedia

証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。

 

元祖御在世の頃から、一念多念の争いというものがあった。一念にて往生すると主張する、あるいは、多念にて往生すると主張することが邪義なのではない。あるいは一念を否定し、あるいは多念を否定することが邪義なのである。

 

例えば、機法一体、他力廻向、等々、これらは思想の発展であって邪義ではない。一枚起請文に反するわけではないからである。還愚の法門と雖も、思想はあり、あるからにはそれは発展することもある。それらは邪義とはまた別のものである。

 

12月19日「ピンチの時に・・・、」:浄土宗

智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、邪見者は邪見ながら申す。一切のひとみなかくのごとし。

 

しかしこの御法語である。これは邪義を主張するような者でも、念佛申して往生すると読める。とするなら、ましてや同じ浄土門ならば、宗派の違いは違いとして、念佛する者は往生すると、なってしまう。鎮西は鎮西ながら、西山は西山ながら、真宗は真宗ながら、念佛して助けられるのである。そしてそれは正しいと思うのである。

 

たとえこのブログで邪義を書き散らかしていたとしても、念佛申す者、往生するのである。