決定(けつじょう)
ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。
第 十 三 巻 - いとーの部屋 - Seesaa Wiki(ウィキ)
但妄念のきをひおこり侍るをば、いかがし候べきと。上人の給はく、是煩悩の所為なれば、凡夫の力及べからず。たゞ本願を頼て名号を唱ふれば、佛の願力に乗じて往生をうと知れりと。法印信心決定し、疑念たちまちにとけぬ。往生さらにうたがひなしとて、退出し給けり。
第 十 九 巻 - いとーの部屋 - Seesaa Wiki(ウィキ)
これを見て良匠のはかりごとなをかくのごとし。いかにいはんや彌陀如来の善巧方便をやとおもひしおりに、疑網たち所にたえて信心決定せり。
かなはぬ物ゆへに、とあらんかからんと思て、決定心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。
往生を期せん人は、決定の信をとりてあいはげむべきなり
ただ心の善悪をもかえりみず、罪のかろきおもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもいて、口に南無阿弥陀佛ととなえては、声につきて決定往生の思(おもい)をなすべし。その決定心によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。
一弥陀本願決定也、二釈迦所説決定也、三諸仏証誠決定也、四善導教釈決定也、五我等信心決定、以此義故往生決定也云々。
正定の業とは、すなわちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。
昔、元祖には称名相続のみあって、信心決定とか安心決定とかは言われてはいないものと思っていた。しかし、考えてみれば、すでに善導大師の御釈に、「決定深信」とあるので、元祖にもないわけがない。ましてや御自身は御廻心を経験しておられる。
そこでこの頃気づいたのが、一枚起請文における「決定」とは、安心決定のことではないかというものである。所謂宗教経験としての決定である。
宗教経験としての決定は、元祖の教えにもあるのである。しかし、その表出の頻度は少ない。何故か。それは、念佛者の決定は、阿弥陀佛に還っていくからである。信の内容たる三心のみならず、称名相続である四修までもが決定にこもっているというのは、そのためである。
行者の決定は、弥陀本願の決定である。弥陀に還っていくものを、いつまでも機の側で云々するわけにはいかないのである。