変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

建暦法語

暦法

淨土宗安心起行のこと。義なきを義とし、樣なきことを樣とす。ただ念佛を申せば、十悪五逆も、三寶滅尽の時のものも、一期に一度の善心なきものも、東西不弁のものも、決定往生を遂げ候なり。
釈迦弥陀をもて証とす。
  建暦元年一月二日

 実は元祖のものかどうかは真偽未詳らしい。小生は元祖のものだと思うけれども。

 

親鸞聖人御消息 (下) - WikiArc

弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。

一言芳談 七十九: Blog鬼火~日々の迷走

正信(しやうしん)上人云、念佛宗は、義なきを義とするなり。

 

一言芳談 一〇五: Blog鬼火~日々の迷走

稱名念佛は、樣(やう)なきを樣とす。身の振舞、心の善惡をも沙汰せず。懇(ねんごろ)に申せば、往生するなり。

勅伝巻二十一

故上人は、『念佛は樣なきを樣とす、ただ平に佛語を信じて念佛すれば往生するなり』とて、またく三心のことをも仰せられざりき。

 

私に云く。義なきを義とすとは、思想以前という意味である。様なきを様とすとは、体験以前という意味である。

 

この法門には思想がある。浄土三部経、浄土論、往生論註、安楽集、観経疏、選択集、等々。しかしこの安心は思想以前のものである。

 

確かに、信心決定という体験はある。聞其名号信心歓喜、一心専念弥陀名号、ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべし、等々。しかしこの安心は体験以前のものである。

 

月の光は草葉の露にも宿るだろうが、それは露の体験ではなく、むしろ月の体験ではないかと、思うのである。

 

安心決定鈔 - WikiArc

三世の衆生の帰命の念も正覚の一念にかへり、十方の有情の称念の心も正覚の一念にかへる。さらに機において一称一念もとどまることなし。
領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。

 

思想を得たならばそれに拘るべきではなく、体験を得たならばそれに拘るべきではない。念佛の安心は、それら以前、つまり阿弥陀様と共にあるからである。