建暦法語
建暦法語
淨土宗安心起行のこと。義なきを義とし、樣なきことを樣とす。ただ念佛を申せば、十悪五逆も、三寶滅尽の時のものも、一期に一度の善心なきものも、東西不弁のものも、決定往生を遂げ候なり。
釈迦弥陀をもて証とす。
建暦元年一月二日
実は元祖のものかどうかは真偽未詳らしい。小生は元祖のものだと思うけれども。
弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。
正信(しやうしん)上人云、念佛宗は、義なきを義とするなり。
稱名念佛は、樣(やう)なきを樣とす。身の振舞、心の善惡をも沙汰せず。懇(ねんごろ)に申せば、往生するなり。
勅伝巻二十一
故上人は、『念佛は樣なきを樣とす、ただ平に佛語を信じて念佛すれば往生するなり』とて、またく三心のことをも仰せられざりき。
私に云く。義なきを義とすとは、思想以前という意味である。様なきを様とすとは、体験以前という意味である。
この法門には思想がある。浄土三部経、浄土論、往生論註、安楽集、観経疏、選択集、等々。しかしこの安心は思想以前のものである。
確かに、信心決定という体験はある。聞其名号信心歓喜、一心専念弥陀名号、ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべし、等々。しかしこの安心は体験以前のものである。
月の光は草葉の露にも宿るだろうが、それは露の体験ではなく、むしろ月の体験ではないかと、思うのである。
三世の衆生の帰命の念も正覚の一念にかへり、十方の有情の称念の心も正覚の一念にかへる。さらに機において一称一念もとどまることなし。
領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。
思想を得たならばそれに拘るべきではなく、体験を得たならばそれに拘るべきではない。念佛の安心は、それら以前、つまり阿弥陀様と共にあるからである。