変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

根拠のない思い込み

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上のサイトはもう更新が止まって数年が経っているが、前に読んで感銘を受けた。明晰なる論理、簡易なる筆致、素晴らしい。そしてその中での主張の一つに、「信仰とは根拠のない思い込みである」ということが、小生の誤解でなければ、ある。

 

さてそこで、念佛の信は、根拠のない思い込みであるか否か。ということを考えてみる。

 

一応、根拠はあると答えたい。それは弥陀の本願である。そもそもは、経論釈をはじめとして、祖師の法語、同行の語録等、所謂聖教に拠っている訳だが、つまるところは、弥陀の本願ということになる。

 

しかし、弥陀の本願は、我々の歴史世界の中には無いものである。すでに聖教の中に、そのように説かれている。そうすると、客観的に見た時、それは根拠が無いと言わないだろうか。多分言われるのだろうと思う。ということは、念佛の信は、根拠の無い思い込み、と評されてもしょうがないと言える。

 

さらに考えてみると、我々の歴史世界に根拠があると、念佛者としては困るのである。それは、他力の法門のはずが自力になってしまうからである。

 

とは言うものの、根拠の無い思い込みと同じという訳にはいかない事情もあるのである。それは、この信は疑いを経ているからである。信じようとして信じられない苦しみを通ってきているからである。

 

心の声が聞こえるとか、眼耳鼻舌身意を以って見聞覚知する訳でもない。ただ疑いがなくなるのである。何の子細もない。これを根拠のない思い込みだと言われるのなら、まあそうかも知れないと返すしかないのである。

 

では祖師や妙好人の語録から。

 

平成19年5月:浄土宗 宗祖法然上人800年大遠忌

ただ念仏申す者往生はするとぞ、源空は知りたる

 

歎異抄 端坊旧蔵 永正本 第二条

「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」と、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

 

妙好人『因幡の源左』

ふいっとわからしてもらったいな。

 

信者めぐり 〜讃岐 庄松同行の物語〜から

南無阿弥陀佛よりほかにありがたいことは知らぬ

 

信者めぐり 〜三河 おその同行の物語〜から

参らせてやろうの仰せのほかに後も先も存じませぬ

 

さらに元祖の御法語から。

 

法然上人のお言葉 - 福聚講

往生は一定と思へば一定なり。不定と思へば不定なり。

念佛申さんもの十人あらんに、たとひ九人は臨終あしくて往生せずとも、我一人は決定して往生すべしと思ふべし。

 

どうも元祖上人は、「根拠のない思い込み」をむしろ推奨しておられるような。それはそれでどうなんだと思わないでもないが、これ以上は不思議ということなのだろう。そもそも思い込めるものなのか、という疑問もあるが。

 

ともあれ、この法門に出会えたことを喜びつつ。