二種深信は矛盾していないだろうか?
矛盾していないという説と矛盾性があるという説があるようである。矛盾性があるというのは、矛盾しているように見えるがしていないということなのか、それとも、矛盾していないとまでは言えないということなのか。矛盾していないというのも、ただそういう風に解釈しているだけのような気がする。
しかし無智無学のともがらである小生は言う、これは矛盾しているのではないかと。何故なら、機の深信では出離の縁がないとあり、要するに助からないということであり、法の深信では定得往生とあり、つまり助かるということであるから、助からないと助かるとが同時に成り立つのは矛盾と言わざるを得ないと思うからである。
弥陀のお助けがあるならそれは出離の縁がないとは言えないと思うのである。一つの心だから矛盾しないということのようであるが、一つの心であるからこそ矛盾ではないのだろうか。
そしてさらに言うと、これは矛盾したままでいいのである。念佛の安心は矛盾したまま成り立っており、小生はこれを二重認識と名付ける。
「安心できるわけない」という安心 ( 宗教 ) - 哲学日記 - Yahoo!ブログ
つねの御詞に云、あはれこの度しおほせばやなと、その時乗願房申さく、上人だにも斯樣に不定げなる仰せの候はんには、ましてその余の人はいかが候ふべきと。その時上人うちわらひて、のたまはく、蓮台にのらんまでは、いかでかこの思ひはたえ候ふべき、云々。
この御法語も矛盾していると思うのだが、それでいいのである。それは何故か。阿弥陀様に、助けられるからである。
南無阿弥陀佛