変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

四苦八苦

四苦とは、生老病死であり、さらに、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦を加えて八苦とする、とある。

 

四苦八苦 - Wikipedia

苦 - WikiArc

仏教講義、1.釈尊の根本的教え (2)四聖諦(続き)(No2)

 

大まかには読んで字の如しであるが、生苦と五蘊盛苦がよくわからない。特に生苦には二つの解釈があるようだが、思うに、生苦とは生まれる苦しみであって、生きる苦しみではないだろうと思われる。生きる苦しみならば、五蘊盛苦と意味が被るように思うのである。五蘊盛苦とは、我々が生きているその状態がすでに苦しみであると、そういう意味だと思うからである。

 

そして、愛別離苦と怨憎会苦であるが、この二つは人間関係に限ったことではないと思う。つまり、好ましい状況では無くなる苦しみ、好ましくない状況に陥る苦しみ、という意味だと思うのである。

 

ということは、生苦とは、母親の胎内というおそらく好ましい状況であろう状態から別れ、娑婆という好ましくない外界へと出ていかなければならない苦しみであると言える。

 

次に老苦とは、若さという好ましい状況から、老醜という厭わしい状況へと移りゆく苦しみということである。

 

次に病苦とは、健康という好ましい状況から、病気という厭わしい状況へとなってしまう苦しみである。

 

そして死苦とは、生きているという好ましい状況から、死んでしまうという忌避すべき状況へと変じてしまうことの苦しみであると言える。

 

生老病死には、愛別離苦と怨憎会苦とが備わっていて、それで四苦というのであるかも知れない。

 

また考えてみるに、好ましい状況から離れることも、厭わしい状況に陥ることも、それらが苦しみなのは、思い通りにならない、どうしようもない、どうにもできない、求めても得ざることだからである。愛別離苦と怨憎会苦とはつまり求不得苦ということになる。ということはつまり、生老病死もまた、求不得苦ということなのである。

 

我々の生存様態である生老病死が苦しみならば、我々の生存自体もまた苦しみということになるだろう。つまり、五蘊盛苦ということなのである。

 

それは生きるという苦しみ、生きているという苦しみ。

 

元祖様曰く、「往生極楽をまめやかにおもひ入れたる人のけしきは、世間を一くねりうらみたる色にて常にはあるなり。」と云々。

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浄土門に帰するほどの人ならば、この苦聖諦は領解済みであろうと思われる。

 

浄土門の念佛者にとって世界と自己とは、五濁悪世であり厭離穢土であり、煩悩具足の凡夫であり、帰去来 魔郷には停まるべからず、であるからである。

 

 

南無阿弥陀

二つの個

親鸞とパウロ』という本がある。買ったその頃はわかったような気になって二読三読したものだが、久しぶりに改めて読んでみるとよくわからない。検索して関連した記事を読んだのだが更にわからない。

 

超個の個、不可分不可同不可逆、第一義の接触第二義の接触、などということが載っている。どうも禅定による本来の自己に目覚める体験がないとわからないもののようであるが、わからないなりにここに感想というか愚見を述べてみる。

 

或いは佛と衆生、或いは神と人、これらを超個と個として、或いは本来の自己、或いは内なるキリスト、に目覚めた「超個の個」、ということらいしいのだが、この「個」というものには実は二つあるのではないかと思うのだ。それは世俗的個と宗教的個と仮に名付けるものである。

 

世俗的個というのは、無明-生死の個であり、常没常流転の個である。宗教的個というのは、無明の滅-生死の滅の個であり、定得往生の個である。また、世俗的個というのは浄土門に帰せずして念佛申さぬ個であり、宗教的個というのは浄土門に帰して念佛申す個である。

 

第一義の接触とは弥陀の本願のことであろうし、第二義の接触とは一念決定して念佛申すことであろうから、この二つの間が不可分不可同不可逆というのは頷けることである。しかし、超個と個との関係では、「超個の個」ならば、その関係が不可分不可同ではあっても不可逆とはならないのではなかろうか。もしこれが不可逆なら、往生も成佛も不可ではなかろうか。

 

そこで思うに、「個」とは世俗的個のことであり、「超個の個」とは宗教的個のことである。不可分とは超個と宗教的個のことであり、不可同不可逆とは超個と世俗的個のことである。この世俗的個がそのままで宗教的個であるというのが、浄土門の安心決定である。

 

超個と世俗的個とは不可同不可逆であり、更にいうなら断絶している。世俗的個にとっては神も佛も無い。信仰も信心も無い。あるのは夢物語であり、つまるところ妄想である。喜びも無く、光も無く、安らぎも無い。経典に言う所の五濁悪世である。

 

宗教的個というのは「超個の個」であり不可分であり、光明遍照であり、摂取不捨であり、如来常住であり、悉有佛性であり、歓喜信受であり、往生一定であり、一文不知である。随順佛願であり、随順佛語であり、随順祖語である。

 

そしてこのような二つの個が一つの人格にある。という訳の分からない状態が念佛の安心である。

 

とまあ訳の分からないことを書いてみたが、大事なことは、阿弥陀様に助けられることである。

 

 

南無阿弥陀

往生は得易し

元祖大師曰く

成佛は難しと雖も往生は得易し。

小生曰く、往生は得易しと雖も安心は得難し。

 

他宗他教にては、信心とも信仰ともいうのであろうこれを、小生は安心と言う。まことに安心は得難し。これは存在の構造からくるものであり、如何ともし難いものである。そもそも、得るものではない。法蔵菩薩が修行し給うところの安心だからである。

 

法蔵菩薩所修の安心であるから、こちらから持ち出すものは何もない。称名でさえこちらからの持ち出しではない。称名と名号とはそのまま安心であるからである。

 

この安心には三つの段階があるのではないかと、小生は考えているが、元祖の御意にはそのような区別はないようである。

 

一言芳談に曰く、

あの阿波介が念佛も、源空が念佛も、またくもて同じ念佛なり。

末燈鈔に曰く、

法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。

 

五十年の求道の後の安心と、昨日今日称え始めた覚束ない念佛の安心とが同じであるとは、正直なところ同じであるとは思い難い。思い難いが、元祖様が同じであると言われるのならば、同じなのだ。

 

 

南無阿弥陀

不足言

勅修御伝 巻五

あるとき上人月輪殿にして、山僧と参会のこと侍りしに、かの僧「淨土宗を立て給ふなるは、いづれの文によりて立て給ふぞや」と尋ぬるとき、「善導の観経疏の付属の文なり」と答へ給ふに、重ねていはく、「宗義を立つるほどのことになんぞただ一文によるべきや」と。上人微咲してものものたまはざりけり。かの僧山に帰りてのち、宝地房の法印証真にこのことをかたりて、「法然房、すべて返答に及ばず」と申しけるを、法印申されけるは、「法然房のものいはれざるは不足言に処するゆゑなり。かの上人は天台宗の達者たるうへ、あまさへ諸宗にわたりて、あまねくこれを習学して、智慧深遠なること、常の人に超えたり。返答かなはずしてものいはずと思ふ僻見、さらにおこすべからず」とぞ申されける。

 

付属の文というのは、これのことだろう。

同経の『疏』に云く、「仏告阿難汝好持是語」より已下は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明す。上来定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、意衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り。

 

不足言というのは、こちらのサイトによれば、

論ずるまでもない誤った考え。

 という意味である。

 

つまり、衆生をして称名念佛せしめんというのが佛の本願である、ということが、宗義を立てるほどの一文であったのである。これは浄土門にとっては真理であり安心ではあっても、他宗他教にとっては批判があるであろう。よってこれ以上の議論は無益であるから、元祖は口を閉ざされたのであろう。

上人微咲してものものたまはざりけり。

 

 

南無阿弥陀

帰依するということ

愚、案ずらく。帰依とは依存である。

 

依存症という言葉があるくらいで、依存という言葉に良い印象はないのだが、しかし、帰依とは、依存であると思うのである。

 

自帰依法帰依で言えば、自己に依存し、法に依存するということである。

 

浄土門で言えば、称名に依存し、名号に依存する、ということである。これが念佛に帰依するということであり、阿弥陀如来に帰依するということなのだ。

 

 

南無阿弥陀

理性と知性とについて

理性とは知性とは何か。改めて調べてみるとよく分からない。そこで簡単に定義付けてみる。即ち、理性とは善悪を判断する能力であり、また知性とは損得を勘定する能力である、と。

 

歎異抄に曰く、

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。

 

つまり、浄土門にて言うところの煩悩具足の凡夫、罪悪生死の凡夫とは、理性なき我々のことである。

 

我々は善悪を知性、つまり損得勘定で判断している。善悪で判断しているのではない。理性がないからである。そして知性は理性に及ばないために間違うのである。

 

思うに、宗教における信仰もしくは安心は、理性の働きを代用するものではなかろうか。もし人が、悪とされるものをなさないとするなら、その人は理性のある稀な人か、何がしかの信仰を持つ人であろう。

 

何が善で何が悪か、突き詰めて考えるとよく分からないが、なんとなく善である方へと心が向いて行くのは、理性ではなく、信仰なり安心なりの働きではないかと思うのである。

 

ただし、小生がそうであるかどうかは分からない。

 

 

南無阿弥陀

三尊

阿弥陀三尊 - Wikipedia

観音菩薩阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる。

 

ということで、なるほどそうなのかと思うものでもあるのだが、また例によって何となく思いついたのだ。つまり、観世音菩薩は縁起の法に、大勢至菩薩は縁滅の法に配当されているのではないだろうか、と。

 

根拠はほとんどない。あえて言うなら、現世利益の印象と真宗の和讃からの印象とに拠っているのだろう。

 

自分で思いついておいて自賛してしまうが、これは当たっているような気がしてならない。釈尊の開悟七日の三つの偈に当てはまっていると思うのだ。

(日没時の詩 )「実にダンマ(注)が、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」
(真夜中の詩) 「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」
(夜明けの詩)「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」
(『ウダーナ』より、玉城康四郎訳) 

 

インド文明の特性なのか、大乗佛教の特性なのかは分からないが、おそらくはそれに従って、それぞれに菩薩様が配当されているのではないだろうか。

 

南無観世音菩薩

南無大勢至菩薩

南無阿弥陀