変的論

主に宗教・佛教・浄土門についてのささやかな見解

選擇護念

選擇護念という言葉があったはずであるが、出典がよく分からない。

【第十五】六方諸仏護念篇 | 浄土宗【公式WEBサイト】

大元は上のリンク先だと思う。

現世利益和讃、というものもある。

毎日の浄土真宗 現世利益和讃

 

思うのだが、どうも守られているような気がするのである。それなりに不運なことにも遭うのであるがなんとなく守られているような気がする。これはそういう感覚なので、もし検証ができるとするなら、別にどうということもないのだろうとは思う。

 

大げさに言うなら、この感覚は、如来常住や摂取不捨などに通じるもののように思うのである。してみると、これは大乗仏教の発達の要因の一つなのかも知れない。

 

もっとも、単なる妄想ということもありうるのだが。

信知

選擇本願念佛集 第八章段に曰く、

深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。

 

深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知し、今弥陀の本弘誓願、名号を称すこと、下、十声一声等に至るに及ぶまで、定んで往生を得と信知して、乃至一念も疑心有ること無し。

 漢文だと以下の如し。

言「深心」者,即「深信之心」也。亦有二種:一者決定深信:自身現是罪惡生死凡夫,曠劫已來常沒常流轉,無有出離之緣;二者決定深信:彼阿彌陀佛,四十八願,攝受眾生,無疑無慮,乘彼願力,定得往生。

 

深心,即是真實信心。信知自身是具足煩惱凡夫,善根薄少,流轉三界,不出火宅;今信知彌陀本弘誓願,及稱名號,下至十聲一聲等,定得往生,乃至一念無有疑心,

これらは、浄土門の偉大なる祖師、唐の善導の著作、観経疏と往生礼賛とからの引用である。この二つの間に思想の浅深があるのかどうかはわからないが、「決定深信」と「信知」とが同じ事態を指していることは間違いなかろうと思われる。そこで、「深信」と「信」とが対応しているであろうから、「決定」と「知」とが対応しているのであろうと思われる。つまり、決定するということは知られることなのである。知られたということは決定したということなのである。

 

 勅修御伝に曰く、

念佛申すものは必ず往生すと知るばかりなり。

 

ただ念佛申すもの往生はするとぞ、源空は知りたる。

 

小生思うに、信知とは、未だ知らざるを信ずるのではなく、すでに知られたことを信ずるのである。それは何かといえば、不出火宅と定得往生とが自身に知られるのである。そしてそれは決定である。

 

 

南無阿弥陀

知情意

知情意というのは、哲学者のカントという人が言い出したらしい。

 

知性、感情、意志。この三つで人の精神が表せるならば、浄土の法門を領受するのもまたこの三つであろうと思われる。

 

信知 : 槐安国伝

心のぞみぞみと身の毛もいよだち、涙も落つるをのみ信の起ると申すは、僻事にてあるなり。それは歡喜・随喜・悲喜とぞ申すべき。信といふは疑ひに対する心にて、疑ひを除くを、信とは申すべきなり。

 

西方指南抄/中末 - 本願力

一念に無上の信心をえてむ人は、往生の匂ひ薫ぜる名號の衣をいくへともなく重ね着むとおもふて、歡喜のこころに住して、いよいよ念佛すべし。

 

三心料簡および御法語 - WikiArc

余行シツヘケレトモ、セスト思、専修心也。
余行目出ケレトモ身カナハ子ハエセスト思ハ、修セ子トモ雑行心也云々。

 

これらの御法語を案ずるに、どうも知性に於ける信受が根本であるように思われる。しかし疑いとは知性の働きではなかろうか。そうすると信とは知性が麻痺することなのだろうか。

 

否、そうではない。知性の働きはそのままで疑いがなくなるのである。疑うことが知性の働きならば、疑わないことも知性の働きなのである。疑わないというよりはむしろ疑えないのである。知性の働きであるからである。

 

そうすると、この疑から信へと知性の働きを転換させるものがあるのである。所謂、決定である。ここら辺の消息を、恐らくは、機法一体とも他力回向ともいうのであろうと思われる。

 

如来の施し給うところであり、法蔵菩薩の修行が現れるところでもある。

南無阿弥陀

事象と解釈

言葉の使い方が間違っているかもしれないが、まあいつものことでもあり、思いついたので書く。

 

死というのは事象ではなく解釈である。事象としての命終を、一般的に死と解釈しているだけである。

 

浄土門では、その命終を死と解釈するのではなく、往生と解釈する。これが安心決定である。

 

よって、必ず往生する。生あるものは必ず死ぬからである。

無条件の幸福

五濁悪時悪世界に生まれた悪衆生の身を不幸とするなら、浄土門の安心は幸福と呼べるだろう。そして浄土門の安心を幸福と呼ぶのならば、それは無条件の幸福である。特に何かと引っかけてあるわけではない。

 

幸福ということを考えると、世間的には、金銭的な、あるいは健康的な、あるいは夢が叶う的な、そんなものだろうと思う。しかしそれらは皆、条件が付いた幸福である。

 

財産があれば幸福である、社会的地位が高ければ幸福である、配偶者が美人もしくは美男子であれば幸福である、健康で老後の不安もなければ幸福である、好きなことができれば幸福である、等々。

 

そしてまた宗教的に考えたとしても、行ずれば幸福になる、信ずれば幸福になる、善を行えば幸福になる、教団に布施すれば、あるいは奉仕すれば幸福になる、等々、これらは皆、条件が付いた幸福である。浄土門の安心ではない。

 

では、どうすれば浄土門の安心は得られるのだろうか。しかしながらそれは、問いがすでに間違っているのである。無条件だと言っているのに、条件を付けて求めているからである。

  

善人は善人ながら、悪人は悪人ながら

というのは、無条件ということである。

 

求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。

 

浄土門に於いては、求めることは条件ではない。 求めたから得られるのではない。尋ねたから、門を叩いたから得られるのではなく、十劫の昔に法蔵菩薩がすでに成就して下さっているから得られるのである。我々がクリアすべき条件は、すでに法蔵菩薩によってクリアされている。だから無条件なのである。

 

いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし

 

古人は上手いことを言われる。そこで小生は言う、いまだ聞かざるには現れず、称えざるには得ることなし、と。

 

称えることは条件ではない。それそのものが安心だからである。

 

どうすれば得られるかと問うべきではない。得られるか、得られざるかを問うべきである。そしてその答えは、今現在説法の如來様からいただくのである。

 

謙敬聞奉行

 

ただ一向に念佛すべし

 

すべて聖教にあるとおりである。

 

 

追記。表題で検索すると出てくる楽曲やアイドルグループとは何の関係もないので悪しからず。

宗>教

おおよそ、宗教には二つあると思われる。一つには、教が宗である、教えそのものが宗である場合。二つには、教が宗を教え示すためのものである場合。

 

記号を以って表すならば、

 宗=教

 宗>教

である。

 

他教他宗は知らず、浄土門は、後者である。では、浄土門において、宗とは何か。聖教においてはいろいろと言われている。あるいは曰く、厭離穢土欣求浄土。あるいは、選擇本願。あるいは、一心専念弥陀名号。

 

愚見によれば、浄土門に於ける宗とは、生死を出離することであり、即ち、浄土に往生することであり、その往生を決定することであり、その決定往生の安心を得ることである。その安心は、称名に依り、名号に依る。つまるところ、弥陀の本願に依る。これを大願業力という。経には、威神功徳不可思議とある。

 

さて、佛教が宗>教であることは、他宗にも見られ、真宗の語録などにも顕著であるが、ここはあえて元祖大師の御法語から引用してみる。

 

往生のためには念佛第一なり。学問すべからず、ただし念佛往生を信ぜんほどはこれを学すべし。

 

ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、聖にて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家にゐて申すべし。自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居して申すべし。

ドグマ酔い

思想に囚われてしまうことを、昔から教条主義とか原理主義とかいうらしいが、小生はこれを「ドグマ酔い」と名付けてみた。これにかかると、精神が柔軟性を失い、思考が定型化して、短絡した発言を成すようになるようである。月をさす指という言葉があるように、指という思想に囚われてしまい、月という真理が見られなくなってしまうのである。

 

聖教を読み、少しでも理解できるようになると、だいたいこれにかかる。というか、小生がそうであり、このブログを書いているわけである。自分ではよくわからないが、割と気持ちいいらしい。

 

信者めぐり -肥後 原口針水師の法話- より

和上また曰く、「たのむ一念は二番だぞや」と仰せられたので、この同行達は色をなした。

一体岡崎の文五郎同行は理屈家で御定判一点張りの裃同行であるから、針水和上だろうが、勧学だろうが御当流の一番大切のたのむ一念を、二番だなぞと云うは以ての外だ。こんな話は聞かぬがよいとて、宿へ帰った。

翌日また和上が、「染め付いた垢は一度では落ちまいから」とて、常行大悲の御親切より、また態々お出かけ下され、御化導下されたれど彼の同行は終日顔を出さずして、和上がお帰り後にまた来られて、そしてその同行が懐中より御聖教を出し、「針水和上が有り難い、何が有り難いと云うても、これより上の物はない」と云うて、同行達はその翌日は帰国した。

私は後に残った二名の同行と、和上の許へ御礼に伺うて、「この程の御化導に、たのむ一念は第二番だぞやと仰せられるは、どういうことでござりますか」と申し上げると。

和上は勢いするどく、「たのむ一念ばかりか、信心も安心も二番だぞ。ただ如來の仰せだけ、即ちお助けが一番だぞや」

 

思うに、かつてあった一念多念の争いも、ドグマに酔っていたのであろう。 

 

一枚起請文には、

智者のふるまいをせずしてただ一向に念佛すべし

一言芳談には、

念佛宗は、義なきを義とするなり。

とある。これらはドグマに酔う事を戒められた法語である。

 

念佛の法門は、称名が安心であり、名号が安心であり、如来様が安心である。これらは思想以前のことであり、そこにドグマはない。