機法一体
機法一体という言葉を知ったのは、安心決定鈔からだったと思う。
浄土門にあって、浄土門の色合いが薄いこの言葉によって、当時、神話的表現に多少の抵抗があった自分にとって、とても助かったのだと今さらながら思う。
機法一体。およそ宗教の安心ならば、宗派の別に依らず、この言葉によって端的に表せるものではないだろうか。
これは西山派の功績であり、元祖上人の御法語にはないものである。ただ、元祖の御法語の中にそれっぽいものがないわけではない。曰く、
異論は認める。というか、こちらが異論なので、認めて欲しいところである。
ただ小生の思うところ、これは浄土門の安心の連続面を端的に表現してはいるが、断絶面を表してはいない。いわゆる二種深信のうちの、法の深信を表していると思うのである。
思想は所詮思想に過ぎない
法然、親鸞の師弟関係に「不適切な記述」 浄土宗、倫理教科書調査へ:イザ!
思想としてみればそうではあるが、しかしそれはそれぞれの流派で発展させているので、真宗に限ったことではなかろうと思う。ただ世間の一般的な見方が、真宗の方が優れているように見えるというだけのことである。実は小生にもそう見える。何しろ鎮西や西山についての書籍が少なすぎる。インターネットで検索をかけても、初めに出てくるのはほとんど真宗のサイトである。検索の仕方も悪いのだろうが、諸宗の方々はもっとインターネットに聖教を開放しても良いのではなかろうか。もっとも、読んだところでわからんのかもしれないが。
小生の場合はそれだけではなくて、鈴木大拙の影響もあり、初めから真宗を元祖とは別物とは捉えなかった。真宗の聖教には、他には伝わっていない元祖の御法語があり、また、これは鈴木大拙も評価しているが、来迎を頼まずということがある。この来迎ということは、御法語にはあるが一枚起請文にはないことなので、小生も頷くところである。
ところで、管見の及ぶところ、また仄聞するところ、また愚考するところによると、元祖の御門弟に共通する課題は、聖道門をどうするか、というものだったのではないかと思う。聖道門をどう解釈し、どう位置づけるか。これがそれぞれの門流の教学となっていったものだろう。それは、佛教の歴史の中に浄土門をどう位置付けるか、ということでもあっただろう。
しかしそれは、教学としては必要だったかもしれないが、一念佛者の安心にとっては、あまり関係ないことのようである。元祖大師は、選擇集を読まなければならないとは言われていないからである。そして思想としての徹底や発展は、もしかすると、安心にとっては退化かもしれないからである。
念佛宗は、義なきを義とするなり。
義というのは、愚見によれば、鎮西義、西山義、真宗義、時宗義、とかの義である。前にも書いたけれども、よって「義なきを義とす」とは、思想以前ということである。
浄土門の安心は、元祖の時点ですでに完結している。というかむしろ、阿弥陀様の時点ですでに完結している。これを様々に言いなすだけである。
報佛の因果
まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。
行業果報 不可思議 諸佛世界 亦不可思議。其諸衆生 功徳善力 住行業之地。
行業の果報不可思議ならば、諸佛世界もまた不可思議なり。そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す。
これを小生は「報佛の因果」と名付ける。衆生の因果ではないからである。
そして得られるこの安心を、「法蔵菩薩所修の安心」と名付ける。衆生が修行して作る安心ではないからである。
この安心は、称名に依り、また名号に依る。これを称名安心と名付け、また名号安心と名付ける。これは自帰依自灯明、法帰依法灯明である。
また、称名に依るとは、多念相続であり、名号に依るとは、一念決定である。
また、相続に三あり、決定に六あり。相続に三ありとは、一つには説法を聞いて称える。二つには、何事もなくとも、自然に縁ぜられて称える。三つには、口に称えざれども相続する。ただし、口称を本とする。決定に六ありとは、一つには弥陀本願決定、二つには釈尊所説決定、三つには諸佛証誠決定、四つには善導御釈決定、五つには元祖立宗決定、六つには凡夫信心決定。
これらは皆、報佛の因果である。
以上は無智無学の小生の料簡に過ぎない。元祖以来、諸派の宗義にはそれぞれ歴史の積み重ねがあり、とても愚生の及ぶところではないのだが、むしろそれ故に、自分なりの咀嚼の結果、以上のようなことになった。
よって小生の見解は、鎮西にあらず、西山にあらず、真宗にあらず、ただ小生だけのものである。それは恰も、小生の人生が小生だけのものであるように。
これを、法蔵菩薩所修の安心という。
宗教と科学
宗教と科学とは、本来、対立するものではない。それを、宗教の領域で科学を語ったり、科学の領域で宗教を語ったりするから、おかしくなるのではなかろうか。
科学は結論が決まっていない。理論と実験とを重ねて結論を出す。当然、結論が変わることもありうる。
しかし、宗教は結論が決まっている。確か、折原脩三という人がそう書いていて、なるほどと思った。
浄土門でいうなら、念佛するもの往生する、である。これを科学することはできない。
例えば、念佛者の脳波を調べることはできるだろうが、機の善悪に関わらない、というのが浄土の宗旨なので、脳波がどのような状態だろうが宗教的には意味をなさない。
所詮、科学というものは、娑婆の中の話である。それは幾億光年先の宇宙であっても娑婆である。その娑婆を出ようというのが佛教なので、その時には、科学は全く役に立たない。その領域が違うからである。
愚癡に還る
機の深信が縁起の法であるということは、先の記事に書いた。善導大師は、常没常流転の縁起の法に、罪悪や凡夫という要素を加えられたのである。
法然教学の研究 /第二篇/第一章 法然聖人における回心の構造/第七節 三学無分の自覚 - 本願力回向
一者、決定深信、自身現是、罪悪生死凡夫、曠劫已来、常没常流転、無有出離之縁。
一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
そして我が元祖和順大師は、機の深信に、愚、という要素を加えられたのではないかと思うのである。
弥陀如来の本願の名号は、木こり、草かり、菜つみ、水くむたぐいごときのものの、内下ともにかけて、一文不通なるが、となうれば必ずうまると信じて、真実にねがいて常に念佛申すを最上の機とす。もし智恵をもちて生死をはなるべくば、源空いかでかかの聖道門をすてて、この浄土門に趣くべきや。聖道門の修行は、智恵をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかえりて極楽にうまるとしるべしとぞ仰せられける。
ご消息披露から −愚者となりて往生す− - 木賣慈教の「和顔愛語」
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。
機の深信とは別と言われればそれまでではあり、凡夫の中にそれは入っているとするならまたそれまでではある。
善導大師も「我等愚癡身」と言われているし、もうすでに入っているのかもしれない。
しかし、小生は今までわからなかった。自身を愚、と認識することは、安心の中にあったのである。
發菩提心
汝は即ち畜生のごとし、また是れ業障深重の人なり。一代の聖説、仏道の妙因、都て菩提心を離れては余毎なし。
華厳宗の明恵上人が、元祖に対して放たれた悪口である。佛教の根幹たる菩提心を否定されたということで、気持ちはわからんでもない。しかしこの物言いだと、明恵上人の宗旨では畜生は救われないことにならないだろうか。畜生は菩提心を起こせないだろうからである。それは大乗佛教としてはどうなのかと思う。
聖道門が發菩提心の宗教だとすれば、浄土門は發菩提心の必要がない本願念佛の宗教である。
菩提心は浄土にて發す。というか、そもそも法蔵菩薩の發菩提心が本願念佛による凡夫の往生となっているので、娑婆において、こちらから改めて起こす必要はない。
弥陀の本願の十方衆生には、畜生も含まれているので、畜生のごとき小生などは、菩提心を起こすこともなく、阿弥陀様に救われるのである。
聖道門と浄土門
聖道門と浄土門の違いを並べてみる。
聖道門:かっこいい、理知、優秀。
浄土門:かっこ悪い、愚迷、低劣。
浄土門の教義が聖道門寄りになっていくのは、しょうがないかな、とは思う。小生も人のことは言えない。
しかし、一枚起請文にある通り、元祖を第一の祖師と仰ぐ者は、かっこ悪く、愚迷で、低劣な、ように見えるお念佛を称えるのである。
これは謙遜して言われているのではない。元祖大師の安心を述べられているのである。法蔵菩薩所修の安心は、機の善悪賢愚にかかわらず、このような構造を持つ。
ところで、それはそれとして、この御法語は小生のためのお言葉である。これは元祖大師がわざわざ小生のために言われたのである。
南無阿弥陀佛